喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

佐田岬の山桜

2012-04-14 | ブログ
 佐田岬の山桜もずいぶんと散りましたが、この土日は何とか見られそうです。

 そのときのために、少し山桜についてお話しします。
 本居宣長の和歌
「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」
「しきしまの やまとごごろを ひととわば あさひににおう やまざくらばな」

 本居宣長は、江戸時代後期の国学者でした。
したがってこの教えが、幕末の「尊皇攘夷」という考えにつながっていきます。
 昭和の時代、太平洋戦争。
昭和19年10月25日に神風特攻隊が始まり、終戦の昭和20年8月15日にいたるまで、出撃機数2,367機、乗員2,530名を数えました。

 その最初の出撃で戦果を上げ、軍神と讃えられたのが、
愛媛県西条市出身で霞ケ浦海軍航空隊教官でもあった、「関行男中佐」率いる五機からなる「特攻敷島隊」だったのです。

 この敷島隊という名は、実は本居宣長の和歌からとったものです。
その後も和歌の名詞から、
「大和隊」、「朝日隊」、「山桜隊」という特別攻撃隊がつくられたようです。



 映画「男たちの大和」の中で良寛の歌が出てきます。
「散る桜、残る桜も散る桜」

 というわけで、桜と言えば「散りゆく美学」のようなイメージが
強くなっているようです。
 
 しかし、散るということは、「いかに生きたか」、という生き方を大切にしていると
思うのです。

 そんな思いももちながら、
佐田岬の山桜をごらんください。

 ちょっと、しんみりしましたね。

                           岬人 

佐田岬の山桜と鳥たち

2012-04-14 | ブログ


 写真は、平礒から東方の釜木の山桜を見たものです。

 釜木の山々には、山桜がたくさんあり、みごとです。
愛媛新聞社発行の「日本列島 鳥の旅」で佐田岬は、次のように紹介されています。

「緑の中に点々と霞むヤマザクラの花の群れ。
微妙に異なるさまざまな緑と薄紅色が、
モザイク模様になって山をひときわ輝かせています。
こんなに美しい配色を誰が考え出したのでしょうか。」
 
 佐田岬半島は、知る人ぞ知る渡り鳥のルートとして、全国的に有名なポイントです。
圧巻は秋、数百羽のヒヨドリが群れなす渡り。
そして春、やがてツバメが帰ってきます。

 「美しく咲いているヤマザクラや緑の木々は、
半島に渡って来た小鳥たちが落とした種から育ってきたのではないか。
ハヤブサの鋭い爪から逃れ、
生き続けた鳥たちが落とした無数の種から…。
その小さな種が土にもぐり、雨をうけて伸びたのだ。
そして、いつの間にか葉を茂らせ、花を咲かせて実を結んだにちがいない。
 鳥たちはその実を食べて命をつなぎ、その鳥たちをハヤブサがねらう。
ヤマザクラが咲いて、ハヤブサにヒナが生まれ、花が散って緑が萌える頃には、
ヒナは力強く巣立っていく。

 何千年、何万年をかけて自然は黙々とその営みをくり返している。
海と空の間を悠久の時が流れていく。
生命が生命に受けつがれていく。」

 わが家のベランダに立ち、ふとっ、こんなことを思いました。

                        岬人(花んちゅう)