洗濯物というと、汚れたものがきれいになるわけで、悪いイメージよりはいいイメージの
する言葉やなとは思っていたけど、それ以外特に何も思うところはなかった。
でも、親(特に母親)として子供の洗濯物を見た時には少し違う感情が芽生える。
今朝、嫁がスノーボードに行って帰ってきた次女の洗濯物を前に、「いつもスノーボー
ドに行くと洗濯物の量がすごい」といいながら、いそいそと洗濯をしてたんやけど、その
言葉の中には洗濯物が多くて困るということよりも、嬉しさがこもっていたように思う。
それはきっと、洗濯物の多さと汚れ具合は子供達の心身の健康と比例していて、そ
れを洗濯する親は自分の心を洗濯しているからなんやろう。
そういえば、自分も親に洗濯物が多い、といって叱られたことなんかなかったし、もち
ろん俺達も子供達をそんなことで叱ったことなんかないもんね。
しかし、嫁が旦那の洗濯物を見る時はまた違う。
なんや、マジマジと襟元を見てみたり、匂いを嗅いでみたり、それは洗濯物が逆に少
ないほど時間をかけて行われ、洗濯物は旦那の心身の不健康さを測るもののよう
なのであーる。
同じ洗濯物でも子供と旦那ではこうも違う。
いっそ俺ごと洗濯機で洗濯してくれとも思うんやけど、そうしたところで取れる汚れで
はないことを嫁はまた知っている。
かように洗濯物はさまざまな感情を育みながらきれいになっていく。
皆さんも、これからものほし竿を見るときに、このようなものの見方をされてみるのは
いかがですか。