僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

一日遅れの1.17

2007-01-18 | Weblog

あの日、俺達夫婦は36歳で子供達は9歳と8歳。俺達は二人の寝室で、子供達は子
供部屋の2段ベッドで寝てたんやけど、揺れを感じると同時に子供達のベッドがつぶれて
いないかと心配になって、子供部屋へ飛んでいったことを覚えている。
幸いベッドはなんともなく、子供達もただ泣いているだけでけがもなにもなかった。ただ、俺
は暗闇の中、子供部屋へ走っていったので、地震で開いたクローゼットの扉でしこたま足を
打ちつけたけどね。まぁ、それもすぐ普通に歩ける程度の軽症やったしたいしたことはなかっ
たから、ウチの場合はあの地震による被害というのは家の壁に少しヒビが入ったこと以外な
く、被害に合われた方々には申し訳ないけど、ホントによかったなと思う。

あの地震からもう13年が経った。
それから、同じような被害に合う人を出さない為にも、その地震の怖さを後世に伝え、さま
ざまな対策を立てることはとても大切なことだと思うし、現にマスコミ等でも1月17日になる
と、さまざまな媒体を使って、あの日を追悼し、現状や今後の対策について議論をし、あの
地震の恐ろしさを風化させないよう、社会に訴えている。

もちろん、それはそれでいい。でも俺は、震災で亡くなった方々の命を特別なもののように
報道するのはいかがなものかと思うねんな。確かに、悲惨さや、亡くなられた方の人数から
言えば特別やとは思うけど、どうも「重さ」を特別扱いしてるような報道が多いような気が
するし、身近な人たちにもそういう考えの人が結構いるように思うねん。

つまり、「人の命の大切さは、どんな条件・状況下であっても変わらない」ということが忘れ
られている。交通事故で亡くなる人、病気でなくなる人、みんな命の重さは同じはず。
それは、命を落とすことが日常になっている飢餓が進んだ国の人や、ある意味命を落とす
ことが仕事である軍人であっても変わることはない。彼らが命を落とした人を大して動揺も
せずに眺めているのは、単に死に慣れているからだけであって、そこでも決して死が軽いも
のではないし、重すぎることもないはずや。

なのに、どうも震災で命を失った方とその遺族の方は特別気の毒な人のように考えるのは
どうなんやろうか。その方々を気の毒だと思うのなら、日々交通事故で亡くなられてる方も、
病気で亡くなられてる方も同じように気の毒に思うべきではないのか。それができないのな
ら、そういう(特別な)考え方は捨てるべきやと思う。
ただ、“あの悲惨な地震で被害に遭われたのを知ってるから”というだけで、中途半端な感
傷に浸るのでは、それは逆に被害者の方に失礼なことや。

「感情の起伏」ほど、ものごとを見る目を狂わせるものはない。「淡々」とか「冷静」というと
なにか冷たい言葉のように思う人が多いけど、それは物事の真理を見極めるのに絶対必
要な心の状態やと思う。

ハード面のケアと被害者の心のケアという話があるけど、せめてそのケアを考える側の人は
絶対に淡々としていているべきやないのかね。
じゃないと、それこそ考え方の地盤が揺らいでしまうやんか。