僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

“願ってない”叶ったり

2011-04-20 | Weblog
先日、わが社のお目付け役M氏から、「南極で氷を売るにはどうするかを考える」という類の、「認識ではなく、意識することで人生は変わる」というお話があった。
もちろん、おっしゃっていることはとてもよく分かるし全く共感するのだが、私は人に「変わってるね」と言われるのが何よりもの喜びである人間であるがゆえ、どうも、元々目の付けどころが人と違っていて(いい悪いの問題ではなく)、特に意識するということなく、それを行っているようなのである。例えば以下のようなことだ。

オーストラリアに留学中の友達の子供さん(男性・20歳)が強盗に襲われた。
電車の中でいきなり殴られ、金品を盗られたらしい。殴られて倒れてしまった際に頭を打って病院には行ったらしいが、幸い怪我は大したことはなく大事には至らなかったようである。

でも、外国にひとりで行くというのは、多かれ少なかれ命の危険と隣合わせだ。親は子供の「幸せより成長」を願い送り出し、本人も危険を覚悟の上で旅立たなければいけない。とすると、今回、「強盗にあったが大した怪我もなく金品が奪われただけ」というのは、海外に駐在する最大の目的であるはずの、「外国の文化を肌身で知り成長する」ということにおいては、これ以上ない経験だった訳で、とんでもなく「ツイていた」ことにはならないか。
「願ったり叶ったり」は思った通りになることだから、嬉しいことだけど、結果が見えていて、心の振幅が少なく少し面白みがないが、この件は、「願う」という労力をかけずして、成長という目的を叶えさせてもらえた訳で、「“願ってない”叶ったり」ということになり、これはもう贅沢極まりない天の贈り物なのだから。

てな具合にまず、最初にこの話を聞いた瞬間こんなふうに思ったのだから、やっぱり私はフツーではないのだろう。
おまけに、「願ってない叶ったり」が叶った時は「願ったり叶ったり」と言っていいのかどうか、なんてややこしいことまで考えてるんだからやっぱり変わっているな、と自分でもあきれてしまう。

ところで、南極で氷を売るには、「氷の暖かさ」がポイントかな、と。
例えば、さまざまな花の型枠を用意して、夜、それに溶かした氷で作った着色水を入れておく。
朝起きたら、 氷の花が咲いていた、というような。

さてこの案、ちょっと素敵やん、と思ってくださる方がいたら、「いいね」じゃなく、是非「変わってるね」と言ってくださいますよう。