僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

はっきりとあいまいに

2012-02-09 | Weblog
はっきりとものをいうことは、日本人にはあまり好まれない。
推して知るべし、が、日本人の繊細な感覚を育んできたことは間違いないし、深く美しい表現はそこに依るところが大きいだろうから、それは仕方ないことかも知れないけれど。

作曲家の武満徹さんは『武満徹 エッセイ選』の中で、流行歌についてこんなことを書かれている。

「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき」
この歌には時代の空気が敏感に反映されていながらも、それに対しての積極的な働きかけというものは見当たらない。あくまでも現状肯定的であり、あきらめの気分に支配されている。

「君も君も人の子ならば、あの子の命かえしておくれ」(吉展くん誘拐事件という事件を扱ったものらしい。)
こんないい気な歌で、作詞、作曲者、歌手たちは犯人が自首するとでも思っていただろうか。自分たちのうたう行いに確信がないから、このようなきわものじみたもので自分たちの無能を隠そうとする。そして、そこに社会的大義名分をふりかざすことは許されない。

「しあわせなら手を叩こう」という歌もまた、けしからぬ。幸福であって手を叩くしかないとは、想像力の貧困も甚だしいいが、これは現状に満足であれば手を叩けとでもいう意味であろうか

「夜明けのうた」はさらに低俗である。
―若い希望をみたしておくれ―
とは、なんと消極的な姿勢であろうか。歌ならば、この夜が永くつづいてくれとでもうたうべきだろう。健康そうにみえながら、この歌は生活と何の関わりも持っていない。

時代が古いので、題材の理解には少し困るが、ご意見には全く共感である。
低俗なものは低俗だという以外に言いようなどないし、低俗を見極める目を持つ人が、世の中に向かってそれを発信してくださることの大切さを、改めて思う。私が石原慎太郎さんや橋下徹市長を尊敬するのは、これができるからだ。

54歳にして新入社員。社に求められているリーダーとしての立場と、新人としての謙虚さを両立するには、間違っているものは間違っていると言う確固たる意志と、四角い部屋を丸く掃く(精神)力の両方が必要になる。はっきりとあいまいに、というのか。

とにかく、自分自身が“低俗”にならないようにしなければ。