今日、駅のホームでは初めて盲導犬を連れた人を見た。
連れている人は盲人の方やったんやけど、その犬はその人の目のごとく、実に的確に
ホームの電車待ちの場所までその人を案内し、その方には失礼な表現やけど、犬が
飼い主を連れて歩いてるというのが正しいと言える振る舞いをしていた。
こういう時、俺たちはよく「賢い犬やなぁ」という表現をする訳やけど、俺にはふと、この
「賢い」というのはどういうことなのか、という疑問が湧いてきた。それは、俺たち人間か
ら見た場合、「犬にこんなことができるなんて」という感情=賢いということであって、犬
の能力からしたら、それは大したことではなく、ちゃんと教えられればどんな犬にでも(体
の大きさ等の条件はあるとして)できることやないのか、と。
そしてそれは、人間の世界にも当てはまるような気がする。
とんでもなく賢い人がとんでもなく賢いと思えることをしているのは、まぁ当たり前や。
本来は、そこに至るまでに、数々の壁を乗り越え、フツーの人から賢人になってきた過
程そのものこそが賢いと評価される部分であって、結果についてはそう驚くことでもない
と思うのよ。
たったひとつのことしか出来ない人、なんでもできる人、大臣も職人も、みんなきっと何
度も自分自身を超えてきた。だから人間はきっとみんな賢人やのに、表面的なことで
だけ賢人と愚人に分けられ、評価されているのは間違っているように思う。
ただ、これだけは言える。
一瞬でも今の自分を“越える”ことを忘れたらそれは愚人に違いない。
ホームで飼い主に忠誠を尽くし、身を捧げる彼を見て、何かに、誰かに精一杯愛情
を注ぐことだけでも、今の自分を超えられるような気がした。
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