僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

ものさし

2011-05-18 | Weblog
私から始まり、娘2人と孫が同じカトリック系の幼稚園(以下M園)に通っている。
私は自分教なので、特定の宗教を信仰しているわけではないけれど、娘をここに通わせたのは、家から直線で30メートル、小走りなら30秒で通えるというこれ以上ない通園条件とこれまでの信頼、という理由からで、娘が孫を通わせている理由もまた同じである。

ところで、このM園、カトリック系ということで、教育の中になにかと「神さま」が登場する。「そんなことしたら神さまに叱られますよ」とか「神さまはいつも見ていてくれるから」とか。
そんな環境下で育った園児たちがやがて卒園して小学校に入った時、彼らに最初の試練が訪れる。

当然だが、彼ら以外の子供たちはカトリック教育を受けていない。そのような集団の中で何か揉め事が起こる。
M園卒の彼らは皆にこう言う。
「そんなことしてたら神さまに叱られるよ!」
しかし、他園卒の生徒たち(主に男子)にこう言い返される。
「あぁん?神さま?誰やねんそれ?!おんねやったらすぐ連れてこんかい!アホボケカス!」
ほとんどのM園卒園児たちは、アホ・ボケ・カスの3連打にバース・掛布・岡田の3連続HRなみの衝撃を受けるも、その意味さえ理解できず、自分が否定されていることも分からず、ボーゼン自失状態になるらしいが、やがてこれが大阪の子供たちの人間関係だと知り、神さまはいないのだ※と知り、少しずつ自分に目覚め成長していくことになる。
まさしく「洗礼」を受けるわけなのだが、これが卒園してからというのもまた趣のあるところで。

と、ここまでは笑い話だが、私はこれに「ものさし」を持つことの大切さ・素晴らしさを感じた。
「神さまがいる」というものさしを持って小学校という社会に出たら、「神さまなんていない」というものさしを持ってる子供達がいた。もちろんどっちが正しいなんてことはないのだが、自分のものさしを持っているからこそ、そのギャップを知ることができる。
親の教育もしかり。親からもらったものさしと自分のものさしにギャップがあるから、苦しみもすれば反発することも覚えていく。

ようするに、ギャップは「伸び代」なのだ。
聞き分けのいい子供を見ると何とも言えない気持ち悪さを感じるのは、本来子供が絶対に持っているはずのこの伸び代を感じられないからなんだろう。

人に迷惑をかけたり命を粗末したりすること以外、何が正しい間違っているなんてない。
子供に対して、「こんな考え方があるのですよ。私たちはそれを信じているからあなたたちに伝えているのです」というスタンスでしっかりとその考え方がものさしとして身につくまで教育し、そのあとのギャップをどう捉えるかは本人たちに任せる。
この緩やかさがとても大切なのであって、ゆとり教育とはまさしくこのようなことを言うのではなかろうか。

ちなみに私は、「髪はいない」というものさしでギャップを知ったが、まったくゆとりを感じられないのは何故なんでしょうか。

※信じている方の心持ちを否定するものではありません。私も神頼みをしますし。

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