かなりの間ブログを書いていなかった。書いていなかったのは以前の会社の昼休みに書いていたからで。
今の会社は非常に情報の扱いに厳しい会社で個人のアカウントで会社のパソコンを使うことができないのでしばらく休んでしまった。
たまたま今はテレワークで昼休みも当然家にいることもあるが、今後は土日を中心に少しずつでも書いていこうと思う。
さて、昨日も書いたが私は竹馬の友がいる徳之島が大好きである。そこには彼のお母さんもいる。実は彼のお母さんは私の命の恩人である。
私が高校一年生だった頃、女の子にふられて落ち込んでいた時、この友が「そんな時はお酒を飲むのがええねん!」などと言い出し、それまで一度もお酒を飲んだことがない私がお酒を飲むことになってしまった。高校の時の友人なんてのは悪いことを一緒にしてなんぼの世界なのであるからして。
その量と言えば、ビールをコップに1杯、日本酒をおちょこに1杯、ウィスキーを瓶のフタに一杯。
まぁお酒を飲む人からしたら水かという程度のものだろうが、初めての私にはこれがとんでもない量だったのだろう、急性アルコール中毒で病院に送られてしまうことになる。幸い一日で回復し退院できたが、後で聞くと下手すると命の危険もあったらしい。
その病院送りになる最中の記憶はほとんどないのだが、彼のお母さんが救急隊員の方に「この子たちはホントにいい子たちなんです!」と何度も何度も言ってくださっていたことと、病院で目が覚めてから彼のお母さんの手を握っていたことだけははっきりと覚えている。
意識がはっきりしてからは私の母親と彼のお母さんが仲良さそうに話をしていたことも印象深い。
やがて私は大学中退から社会人となり、大阪にいたお母さんは旦那様と故郷の徳之島に帰られた。そこから何十年もお会いすることができなかったのだが、今年私が徳之島に行くことができて何十年振りかの再会を果たすことができたのである。
お母さんの人間的な魅力は一言ではとても言い表せない。
救急隊員への言葉は、未成年が飲酒をして救急車で運ばれるなんてことになってしまったが、なんとか無事に手当てをしてもらえるようにと祈っての言葉だっただろう。
本がとてもお好きで93歳の今も毎日とにかく本を読んでおられる。私の母親が歌人(素人だが歌会始めの佳作に入ったこともある)だったこともあり、数年前に母の本をたくさん送らせていただいたのだが、恐ろしいことにその本のほとんどを読破しておられたのであろう、「今の(といっても母が存命だった15年ほど前だろうか)あなたの家の前はこうこうこうなんですってね、あなたのお母さんの句を読んだらそう書いてあったから」とおっしゃる。何度も言うが御年93歳である。もう信じられない。
お邪魔した日の夕食に豚足を焚いてくださっていた。外で薪をくべて数時間コトコトと焚いてくださったそうだ。その味はもちろん絶品だが、私のために何時間もかけて料理を作ってくださったことのありがたさがたまらなくありがたく嬉しい。
戦時中の苦労話や徳之島の話をいっぱいしてくださった。息子夫妻がいてくれるから私は幸せだとはっきり言葉にして感謝を表現される。
そして一番感動したのが、帰りの徳之島空港での出来事だ。友人夫妻と一緒にいたところにお母さんがいきつけの美容室の方とお会いした。友人から私のことを聞いたその美容師の方が私におっしゃったのが、
「ああ、大阪の息子が来るとおっしゃってましたよ」
いや、もう参ってしまった。そのあと大阪についてからのバスの中でお母さんが握ってくれたおにぎりを食べた。涙がとめどなく溢れた。
93歳の今も決して昔の常識に囚われることなく、時代と共に、故郷と共に、息子夫妻と共に日々成長し続け、全てに感謝して生きるお母さんを見てると、とにかく62歳にもなってまだ青臭い自分が恥ずかしくなる。でも恥ずかしい自分でもしっかり生きなければとお母さんは教えてくれる。
日本一の長寿の島、徳之島では、80歳は働き盛りらしい(笑)。お母さんは間違いなく100歳を超えてもお元気だろう。
今後も年に一度は徳之島に行って達見を頂戴したい。
命の恩人は人生の恩人でもあり、あつかましいがもう一人の母でもあるのだ。
今の会社は非常に情報の扱いに厳しい会社で個人のアカウントで会社のパソコンを使うことができないのでしばらく休んでしまった。
たまたま今はテレワークで昼休みも当然家にいることもあるが、今後は土日を中心に少しずつでも書いていこうと思う。
さて、昨日も書いたが私は竹馬の友がいる徳之島が大好きである。そこには彼のお母さんもいる。実は彼のお母さんは私の命の恩人である。
私が高校一年生だった頃、女の子にふられて落ち込んでいた時、この友が「そんな時はお酒を飲むのがええねん!」などと言い出し、それまで一度もお酒を飲んだことがない私がお酒を飲むことになってしまった。高校の時の友人なんてのは悪いことを一緒にしてなんぼの世界なのであるからして。
その量と言えば、ビールをコップに1杯、日本酒をおちょこに1杯、ウィスキーを瓶のフタに一杯。
まぁお酒を飲む人からしたら水かという程度のものだろうが、初めての私にはこれがとんでもない量だったのだろう、急性アルコール中毒で病院に送られてしまうことになる。幸い一日で回復し退院できたが、後で聞くと下手すると命の危険もあったらしい。
その病院送りになる最中の記憶はほとんどないのだが、彼のお母さんが救急隊員の方に「この子たちはホントにいい子たちなんです!」と何度も何度も言ってくださっていたことと、病院で目が覚めてから彼のお母さんの手を握っていたことだけははっきりと覚えている。
意識がはっきりしてからは私の母親と彼のお母さんが仲良さそうに話をしていたことも印象深い。
やがて私は大学中退から社会人となり、大阪にいたお母さんは旦那様と故郷の徳之島に帰られた。そこから何十年もお会いすることができなかったのだが、今年私が徳之島に行くことができて何十年振りかの再会を果たすことができたのである。
お母さんの人間的な魅力は一言ではとても言い表せない。
救急隊員への言葉は、未成年が飲酒をして救急車で運ばれるなんてことになってしまったが、なんとか無事に手当てをしてもらえるようにと祈っての言葉だっただろう。
本がとてもお好きで93歳の今も毎日とにかく本を読んでおられる。私の母親が歌人(素人だが歌会始めの佳作に入ったこともある)だったこともあり、数年前に母の本をたくさん送らせていただいたのだが、恐ろしいことにその本のほとんどを読破しておられたのであろう、「今の(といっても母が存命だった15年ほど前だろうか)あなたの家の前はこうこうこうなんですってね、あなたのお母さんの句を読んだらそう書いてあったから」とおっしゃる。何度も言うが御年93歳である。もう信じられない。
お邪魔した日の夕食に豚足を焚いてくださっていた。外で薪をくべて数時間コトコトと焚いてくださったそうだ。その味はもちろん絶品だが、私のために何時間もかけて料理を作ってくださったことのありがたさがたまらなくありがたく嬉しい。
戦時中の苦労話や徳之島の話をいっぱいしてくださった。息子夫妻がいてくれるから私は幸せだとはっきり言葉にして感謝を表現される。
そして一番感動したのが、帰りの徳之島空港での出来事だ。友人夫妻と一緒にいたところにお母さんがいきつけの美容室の方とお会いした。友人から私のことを聞いたその美容師の方が私におっしゃったのが、
「ああ、大阪の息子が来るとおっしゃってましたよ」
いや、もう参ってしまった。そのあと大阪についてからのバスの中でお母さんが握ってくれたおにぎりを食べた。涙がとめどなく溢れた。
93歳の今も決して昔の常識に囚われることなく、時代と共に、故郷と共に、息子夫妻と共に日々成長し続け、全てに感謝して生きるお母さんを見てると、とにかく62歳にもなってまだ青臭い自分が恥ずかしくなる。でも恥ずかしい自分でもしっかり生きなければとお母さんは教えてくれる。
日本一の長寿の島、徳之島では、80歳は働き盛りらしい(笑)。お母さんは間違いなく100歳を超えてもお元気だろう。
今後も年に一度は徳之島に行って達見を頂戴したい。
命の恩人は人生の恩人でもあり、あつかましいがもう一人の母でもあるのだ。