僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

もう一人の母

2020-05-05 | Weblog
かなりの間ブログを書いていなかった。書いていなかったのは以前の会社の昼休みに書いていたからで。
今の会社は非常に情報の扱いに厳しい会社で個人のアカウントで会社のパソコンを使うことができないのでしばらく休んでしまった。
たまたま今はテレワークで昼休みも当然家にいることもあるが、今後は土日を中心に少しずつでも書いていこうと思う。

さて、昨日も書いたが私は竹馬の友がいる徳之島が大好きである。そこには彼のお母さんもいる。実は彼のお母さんは私の命の恩人である。
私が高校一年生だった頃、女の子にふられて落ち込んでいた時、この友が「そんな時はお酒を飲むのがええねん!」などと言い出し、それまで一度もお酒を飲んだことがない私がお酒を飲むことになってしまった。高校の時の友人なんてのは悪いことを一緒にしてなんぼの世界なのであるからして。
その量と言えば、ビールをコップに1杯、日本酒をおちょこに1杯、ウィスキーを瓶のフタに一杯。
まぁお酒を飲む人からしたら水かという程度のものだろうが、初めての私にはこれがとんでもない量だったのだろう、急性アルコール中毒で病院に送られてしまうことになる。幸い一日で回復し退院できたが、後で聞くと下手すると命の危険もあったらしい。

その病院送りになる最中の記憶はほとんどないのだが、彼のお母さんが救急隊員の方に「この子たちはホントにいい子たちなんです!」と何度も何度も言ってくださっていたことと、病院で目が覚めてから彼のお母さんの手を握っていたことだけははっきりと覚えている。
意識がはっきりしてからは私の母親と彼のお母さんが仲良さそうに話をしていたことも印象深い。

やがて私は大学中退から社会人となり、大阪にいたお母さんは旦那様と故郷の徳之島に帰られた。そこから何十年もお会いすることができなかったのだが、今年私が徳之島に行くことができて何十年振りかの再会を果たすことができたのである。
お母さんの人間的な魅力は一言ではとても言い表せない。
救急隊員への言葉は、未成年が飲酒をして救急車で運ばれるなんてことになってしまったが、なんとか無事に手当てをしてもらえるようにと祈っての言葉だっただろう。
本がとてもお好きで93歳の今も毎日とにかく本を読んでおられる。私の母親が歌人(素人だが歌会始めの佳作に入ったこともある)だったこともあり、数年前に母の本をたくさん送らせていただいたのだが、恐ろしいことにその本のほとんどを読破しておられたのであろう、「今の(といっても母が存命だった15年ほど前だろうか)あなたの家の前はこうこうこうなんですってね、あなたのお母さんの句を読んだらそう書いてあったから」とおっしゃる。何度も言うが御年93歳である。もう信じられない。
お邪魔した日の夕食に豚足を焚いてくださっていた。外で薪をくべて数時間コトコトと焚いてくださったそうだ。その味はもちろん絶品だが、私のために何時間もかけて料理を作ってくださったことのありがたさがたまらなくありがたく嬉しい。
戦時中の苦労話や徳之島の話をいっぱいしてくださった。息子夫妻がいてくれるから私は幸せだとはっきり言葉にして感謝を表現される。
そして一番感動したのが、帰りの徳之島空港での出来事だ。友人夫妻と一緒にいたところにお母さんがいきつけの美容室の方とお会いした。友人から私のことを聞いたその美容師の方が私におっしゃったのが、
「ああ、大阪の息子が来るとおっしゃってましたよ」
いや、もう参ってしまった。そのあと大阪についてからのバスの中でお母さんが握ってくれたおにぎりを食べた。涙がとめどなく溢れた。

93歳の今も決して昔の常識に囚われることなく、時代と共に、故郷と共に、息子夫妻と共に日々成長し続け、全てに感謝して生きるお母さんを見てると、とにかく62歳にもなってまだ青臭い自分が恥ずかしくなる。でも恥ずかしい自分でもしっかり生きなければとお母さんは教えてくれる。

日本一の長寿の島、徳之島では、80歳は働き盛りらしい(笑)。お母さんは間違いなく100歳を超えてもお元気だろう。
今後も年に一度は徳之島に行って達見を頂戴したい。
命の恩人は人生の恩人でもあり、あつかましいがもう一人の母でもあるのだ。

国民栄誉賞を竹馬の友に

2020-05-04 | Weblog
私には竹馬の友がいる。
今私は62歳。高校生の頃からの付き合いだからもう50年近いということになる。
その友は6年か7年前に大阪から故郷である徳之島に戻った。
理由はひとりで暮らしているお母さんの面倒を看るためである。
大阪での仕事をやめ、全く初めての農業を始めた。
始めた頃は仕事が終わるとクタクタになって、帰ったら玄関に倒れ込んでそのまま寝てしまったこともある。
お母さんは御年93歳。今年彼の家に寄せてもらってお話しをさせていただいたが、
50歳位の方と話をしているような錯覚に陥るほどお元気でなおかつ聡明で柔軟なお母さんだ。
彼の兄弟は兄さんが二人。そのお兄さんたちはお母さんに毎日電話をすることをもう数十年欠かしたことがない。
奥さんは一人(ま、普通(笑))。初めての農業を手伝い、主婦業をこなし、お母さんの面倒を看るスーパーウーマンだ。

友は口数が多くない。メールや電話もほとんどしない。
でも私が苦しくて苦しくてどうにもならない悩みがあった時、毎日戦場のような畑で作業をしている中必ず私の電話を取ってくれた。
お母さんは私に生きる勇気をくれる言葉をいくつもくださった。
彼のすぐ上のお兄さんには一時期非行に走った娘を助けてもらった。
奥さんは見てるだけで気持ちがいいほど働きもので尊敬に値する。

60歳を前に全てを捨て、徳之島に戻り、年老いたお母さんを大切に大切に守りながら、地を這うような生活をしている人がいる。
そして彼らは皆、決して愚痴などこぼさず、できない理由など探さず、自然を大切に、人の心を大切に人の尊厳を守りながら生きている。

今年の農業での収入は数十万だったそうだ。なんとか生きてるよと彼は笑う。

今まで国民栄誉賞を受けてこられた方々を決して非難するつもりはないが、
国民栄誉賞とは本来このような人たちに贈られるものではないのか。

橋下さんじゃないが、この非常時(2020年5月、まだコロナ恐慌の真っ最中)に、ロクに仕事もしないで数千万の給料をもらっている人たちがいる。
竹馬に乗っていた頃を思い出してよく考えて欲しいものである。