城郭探訪

yamaziro

関が原の戦いで内助の功。

2012年06月01日 | 番外編

良妻賢母を称える際に必ず名を挙げられる女性で、織田信長の馬揃に出る為へ「そくり10両」を一豊に差し出し一豊はその駿馬を手に入れ馬揃に出て、信長の歓心をかったというhttp://www.youtube.com/watch?v=N9IzUJ9tG6khttp://www.gokuh.jp/ghp/busho/fem_025.htm

書状を一豊のもとへと届けさせた。届けたのが田中孫作であった。

山内一豊の妻・千代 四十四歳

 関が原の戦いで内助の功。

時は慶長五年(1600年)、天下分け目の関が原。その直前まで、各大名たちは、豊臣方につくか、徳川方につくかで迷っていた。山内一豊は、その時家康に従って関東にあった。

 ちょうどその頃、大坂で一豊の留守を守っていた千代のもとに、豊臣側に従うようにという書状が届いた。彼女は、その書状をすぐに一豊のもとへと届けさせた。

「必ずや家康公に忠義を尽くしますように。私のことは、ご心配なきよう。いざというときには、自害する覚悟でおりますので」
しかも、大坂方の書状は、決して封を切らず、そのまま家康公に差し出すようにと書いた密書まで添えられていたのだ。

 

一豊は、千代のその機敏な行動に感謝して、書状を家康に差し出す。その功により、一豊は、土佐二十四万石の城主となることができるのである。内助の功として、後の世にまで語りつがれた一豊の妻千代、四十四歳の頃のエピソードである。