≪ 近江の三井氏の系図 ≫ □「豪商三井家の系譜」の文中より引用。
「佐々木南北諸士帳」に、近江小脇城主三井新三郎安隆の名がみえ、小脇城は佐々木氏の家臣三井氏の居城とされ、三井氏は佐々木氏の流れを汲むといわれている。応永二三年(1416)には守護の六角満高の元で近江守護代を務めている。
「三井系図」には、御堂関白藤原道長の子の長家から系を始め「藤原長家-忠家-基忠-信忠-信生-信政-信俊-定文-信文-信堯-信良」と続き、信堯が入部した近江国滋賀郡三井郷の地名に因み「三井氏」を名乗った。三井信良の五世孫にあたる出羽守乗定の女婿に、佐々木六角本宗の大膳大夫満綱(満高の子)の子の六郎・備中守高久が入り、その子が三井出羽守実忠、その子が上記新三郎安隆とされる。それ以後、「藤原姓」を改め「宇多源氏佐々木姓」を称する。
また、備中守高久は愛智郡鯰江城を築いて鯰江とも号し、その子が同地に居して鯰江左近将監高昌といった。三井氏の一族は越中や三河に分かれたと伝えている。この一族から「三井財閥」を築いた「三井高俊」が出ている。(三井系図)
三河の三井氏は、出羽守乗定の弟の「九郎左衛門尉乗春」が三河国宝飯郡八幡村(現:豊川市八幡町)に住み、その子氏春-光時と続き、その孫「左衛門尉光忠」が家康に仕え、その孫「左衛門尉光正」が大坂の陣に参陣し、以後紀州家に属したらしい。