城といえば武士が戦いの陣地として、あるいは領域支配の拠点として築いたものというのが一般的なイメージでしょう。武士は戦いを生業とする職能集団であり、戦いにまつわるものには武士とのつながりが強くイメージされます。
江戸時代、刀狩りを経て兵農分離が実現し、武士身分と百姓・町人身分とがはっきりと分けられると、武士身分が武力を独占するようになります。しかし中世においてはこうした厳密な身分制度は成立しておらず、武士と百姓、武士と商人・職人を兼ねるような人々が広く存在していたのです。また農村にも多くの武器が存在し、武力は武士身分が独占するものではありませんでした。戦国末期における一向一揆の広範な展開は、こうした社会的条件がもたらしてものといえるでしょう。
普通の百姓までもが武力を有するこうした時代にあっては、当然のごとく自力救済慣行が在地に広く存在していました。何か問題が発生したときに、自分たちでそれを解決し、それが時に武力衝突にまで発展しました。もはや戦いは武士の専売特許ではなくなっていたのです。
しかしだからといって中世が、そこら中に暴力が渦巻く殺伐とした社会であったというわけではありません。ただ、自前の武力を背景とすることによって、一揆とよばれる自立した組織が生まれてくるのです。自力救済を前提とする社会にあっては、自身の身を守ることが重要になってきます。武装する百姓、武装する寺院の登場です。彼らは武力を保持するだけでなく、自身の居住する村・町や寺を守る防御施設を構築します。堀や土塁をめぐらせ、それらを折り曲げて防御性を高めるといった工夫が見られ、城塞のような様相を呈しています。
近江は、在地の自立性が高いことから、このような城塞化した村・町・寺が多く見られます。一向一揆の拠点となった寺内町や、広大な伽藍を誇る山岳寺院などが代表的な遺構です。今年度の連続講座では、寺内町や城塞化した山岳寺院など、戦国武将の城郭とはひと味違う城郭を取り上げます。例年通り、室内での関連した講義と現地見学をセットで行います。現在、参加方法等計画の詳細を詰めているところですが、決定次第様々な媒体でお知らせいたします。(松下)