城郭探訪

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川守城(野寺城)の城主・・・・弓道 日置吉田流弓術

2012年06月29日 | 番外編

 

近代弓道の礎となった優れた技術、そして高い精神性

日置吉田流弓術(へきよしだりゅうきゅうじゅつ)

 

日置弾正、吉田重賢へ伝授の図(生 弓斎文庫蔵)
弓道と竜王町…一見何のむすびつきもないように思われます。

しかし日本の弓道史において大変重要な意味をもつ人物を多く輩出し、近代弓術確立の舞台となったのが、ここ滋賀県蒲生郡竜王の地なのです。

弓道は、諸武道奨励の気運が高まった明治半ばまで、「弓術」と呼ばれていましたが、その弓術の歴史をたどりながら、あまり知られていない町の横顔にふれてみましょう。

室町中期までの弓術は、武田・小笠原流などの「古流」といわれる流儀が主流でした。
これは技そのものよりも、弓馬諸式の儀礼的故実様式として大成されたものです。

しかし戦乱の世となり、もっと実戦的な威力を示す弓術の必要性を感じ、新しい射術の改良工夫を行ったのが日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)でした。彼は愛田村(現在の三重県伊賀町)生まれと言われ、若いころから弓術に秀で、数々の勇名を馳せています。

彼は弓術を極めるために諸国を遊歴し、苦労の末、飛・貫・中の奥義を身につけ、彼独自の新射術を開発しました。彼は近江の六角佐々木氏に従い、その新しい弓術で大いに奮戦したと伝えられています。日置弾正については架空の人物との説もあります。

さて、近江の國、蒲生郡河森・川守城(野寺城)(現在の滋賀県竜王町川守)の城主であった吉田氏は、近江源氏・六角佐々木氏に仕え、代々弓馬の武功に名高い一族でした。

その十一代目の吉田出雲守重賢(よしだいずものかみしげかた)(将軍足利義晴弓術指南役)について、次のような伝説が残っています。

それは、吉田重賢が生まれる前のこと。
彼の母親は、彼が生まれるとき、三日月が自分の胸に入っていく夢を見ました。
三日月の形からの暗示でしょうか。

彼女は「この子はきっと弓道の名誉を得るに違いない」と確信し、重賢の弓術修行にたいへん熱心でした。
母親の思ったとおり、彼は年若いうちから才能を発揮し、その技は妙域に達したそうです。

やがて彼が壮年になって、吉田八幡宮に参籠したときのこと、満願の暁に白髪の老人から一本の矢を与えられる夢を見ます。
不思議に思いつつもさらに修行を積んでいると、その翌年、齢五十余りの老人が突然現れ、重賢に弓術の奥義をことごとく伝授しました。

この老人が日置弾正(へきだんじょう) であることは言うまでもありません。
こうして重賢と、その嫡子の重政(しげまさ)は、七年の間彼のもとで日夜親しく従学しました。
重賢は、その教えに自分なりの工夫を加え、ついに「日置吉田流」(へきよしだりゅう)「日置流」を完成させます。

この流儀は「新派」と呼ばれ、以後近代弓術の基礎として多くの弓の名手を輩出し発展していきます。

日置弾正架空説は、「吉田流」を編み出した本来の元祖である吉田重賢が、日置弾正正次なる人物を自分の上に創造し、弓術の全ての奥義を伝授したとすることにより「日置流」流儀の重み付けを図ったと言う説もあります。

この「日置吉田流弓術」「日置流」は、血統による一子相伝もしくは唯授一人の精神を貫くことを基本としていました。

しかしそのためにひとつの紛争が起きました。
重賢の子、重政は父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)の弓の師範を務めるなどすばらしい腕の持ち主でした。

この吉田重政の門人で、主家の佐々木義賢(ささきよしたか)は、どうしてもその秘伝を伝授してほしいと重政に迫りました。

しかし重政は、いくら主家であっても、他家へ渡すことはできないと、一子相伝の掟を守り、それを許さなかったため、二人の間には不和が生じ、一時吉田重政は越前一条谷に引きこもってしまいました。
結局数年後、朝倉義景(あさくらよしかげ)のとりなしにより、二人は養子縁組を結び、佐々木義賢は日置吉田流の奥義一切を受け継ぎます。

その後、佐々木義賢(よしたか)は逆に吉田重政の息子の重高を自分の養子として秘伝を返したと伝えられています。

この紛争がもたらしたものは、同流派の分立化です。
吉田重政から佐々木義賢、そして吉田重高 へという流れは、いわゆる出雲派と呼ばれ、その後重綱(しげつな)=豊隆(とよたか)=豊綱(とよつな)=豊覚(とよかく)…と続き、阿部藩の庇護を受けて明治維新まで発展します。

これに対して、佐々木義賢と、吉田重政の対立を憂い、吉田流弓術の危機を感じた吉田重賢が、重政の四男で孫に当たる重勝(しげかつ)「雪荷」(せっか)に直接真伝を伝授したことから、本流とは違った別の流派が生まれました。
これを雪荷派と呼び、吉田流の技術的な要素は雪荷派に多く伝えられているとも言われています。

重勝は諸国を周遊して弓術修行に励み、その門人は数百人にものぼりました。
蒲生氏郷(がもううじさと)・秀郷親子(ひでさとおやこ)、森刑部(もりぎょうぶ)、羽柴秀長(はしばひでなが)、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、細川幽斎(ほそかわゆうさい)などが高弟として有名です。
その後、この二つの流派からさらに分立が進み、総じて日置六派もしく七派と呼ばれるようになりました。

吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)は、一水軒印西と言い日置流印西派(日置當流)の祖として後世に名を残します。
「日置流印西派」は徳川将軍家弓道指南役にもなり「日置當流」と言われる様になりました。

大和日置流(吉田流)
    ├出雲派----------寿徳派
    |  |       └ 印西派(いんさいは)
    |  ├山科派
    |  ├左近右衛門派---大蔵派---山科派
    |  └大心派
    └雪荷派(せっかは)(日置當流)----道雪派

本流はどこなのかという点については諸説がありますが、いずれにしても吉田家という一族が、何代にもわたり弓道で名を挙げたことは事実であり、たいへん希有なことだといえるでしょう。

1543年ポルトガル人により伝えられた鉄砲は、日本の戦術に大きな変化をもたらしました。特に織田信長による鉄砲戦術以降、武器としての弓や矢の役割は衰退していきます。
しかし武士が指導力を持っていた江戸時代には、弓は士気鼓舞のための武士教育に用いられるようになりました。

そして個人的な弓の技術を確認するだけでなく、武士の力を民衆に誇示するため、京や江戸で三十三間堂の通し矢が盛んになりました。
中でも出雲派の流れをくむ大蔵派の創始者、吉田茂氏(しげうじ)は、前後七回にわたってその技を試み、次々に自己の記録を更新し、天下一の名声を独占しました。

明治維新以後弓術は、西洋文化を重んじる気風に押されて一時衰退の色を見せましたが、現在では、学校体育にまで取り入れられ、男性のみならず、女性にも愛弓者が増えつつあります。
現代の弓道は、ただ目標に射当てるだけでなく、何事にも動揺することのない精神性を身につけるスポーツ弓道ですが、その根幹にあるのは、日置吉田流という大きな流れです。

現在の雪野山付近(滋賀県蒲生郡竜王町川守)は、代々の弓の名手たちにまつわる遺跡が多く残っています。
このあたり一帯は川守城址(吉田城址)であり、川守には「吉田出雲守重賢居宅跡」(よしだいづものかみしげたかきょたくあと)」と江戸時代の文献に記された小祠城八幡があります。

また東南に位置する葛巻(かずらまき)は、吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)徳川将軍家弓道指南役・日置流印西派(日置當流)の流祖・一水軒印西輩出の地であると伝えられています。

南の宮川は、重賢の隠れ場所のあったところで、雪荷派(せっか)の祖吉田重勝が二十五、六歳のころ祖父に秘伝を教えられた地であるとも言われています。

弓に関する地名では「弓削」(ゆげ)と言う字が竜王町には残っています。

竜王町七里の石部神社「弓始め神事」と「弓納め神事」また、弓道発祥の地であることが伺える行事に、竜王町七里の石部神社の「弓始め神事」と「弓納め神事」が今も残っています。

このように滋賀県竜王町と弓道は深い結びつきがあることをおわかりいただけたかと思います。

弓道をされる方は是非竜王町にお越し頂き、かつて弓の道を極めた男たちのロマンを静かに感じ取っていただいてはいかがでしょうか。


お問合せ・担当課 竜王町観光協会 0748-58-3715

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BD%AE%E6%B5%81


鏡(かがみ)の里周辺の見どころ

2012年06月29日 | 番外編
鏡の宿 義経元服ものがたり
義経元服の地 鏡(かがみ)の里周辺の見どころ
古今和歌集にも詠われた
鏡山(かがみやま)と雲冠寺(うんかんじ)跡

歴史に知られている鏡山は、古今集にも数多くの歌人たちが詠ったように風光の秀麗と史跡が豊富であります。
山頂近くには聖徳太子26歳の時(600)に自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡があります。
嵯峨天皇(809~823)の時、伝教大師(最澄)(767~822)に勅旨が下り再建。往時(おうじ)は、堂塔僧坊五堂、精舎千坊(1000坊)が立ち並び朝夕には梵鐘(ぼんしょう)が響き全山にこだまして、さながら釈尊(しゃくそん)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を偲ばせたといわれます。
雨の神・水の神ともいわれる八大竜王の一つ摩耶斯竜神(まなしりゅうじん)が竜王宮としてまつられ霊山、竜王山としても有名です。
詩興(しきょう)豊かなこの秀峯は和歌、俳句、漢詩に百余首と幾多墨客(ぼっかく)の歌枕となり近江の名山に数えられた歴史と文化の里山です。
鏡山
鏡山 君に心や うつるらむ
 いそぎたたれぬ 旅衣かな
         藤原定家(ふじわらのていか)
      かがみ山 老いぬるかげを はづかしみ
         たれこめてはが 行くと見るらん
               本居宣長(もとおりのりなが)
吾妹子(わぎもこ)が
 鏡(かがみ)の山のもみぢ葉の
  うつるときにぞ 物はかなしき
   大伴家持(おおとものやかもち)
ほととぎす 鳴くやちらりと 鏡山
       各務支考(かがみしこう)
鏡山 いざ立ち寄りて 見てゆかむ
 年経ぬる身は 老いやしぬると
     大友黒主(おおとものくろぬし)
伝教大師(最澄)建立の西光寺跡にそっとたたずむ他に類をみない逸品 重要文化財指定
西光寺(さいこうじ)跡の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
西光寺は、伝教大師(最澄)(767~822)が夢の御告げにより鏡山十二峰の一つ星ケ峰の麓に(818)建立しました。嵯峨天皇(809~823)の勅願所(ちょくがんしょ)で、増坊(そうぼう)三百坊といわれていました。足利尊氏(あしかがたかうじ)が、元弘(げんこう)3年4月20日(1334)、後醍醐(ごだいご)天皇に帰順(きじゅん)を表明した所でもあります。よって、その後の足利尊氏があったといわれています。
源頼朝(みなもとのよりとも)も往還の時、西光寺でしばし宿泊をしています。
康平(こうへい)2年(1060)の乱で一山焼亡し中興(ちゅうこう)されましたが、信長の兵火(1571)で廃寺となります。
その名残をとどめているのがこの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、記念宝塔として昭和35年2月に国の重要文化財に指定されました。塔の高さ210cmの堂々としたもので笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き塔身、笠、相輪を積み重ねています。また、石の角に梟(ふくろう)の彫刻は、あまり例のない塔であるといわれています。
(鳥形の塔身は、宝篋印塔の源流といわれる中国の金塗塔の伝統を示すといわれているもので、その意味でも、この宝篋印塔は大変貴重なものなのです。)
大正三年、東京帝室博物館(国立博物館の前身)の高橋健自(たかはしけんじ)氏に「他に類をみない逸品である」「この塔を見ずして他の宝篋印塔を語るなかれ」といわしめた立派なものなのです。鎌倉時代後期1300年頃の作。

宝篋印塔を拡大して見る→
珍しい背の高い灯籠 重要文化財指定
八柱神社(やばしらじんじゃ)跡の石灯籠(いしどうろう)
石灯籠 この石灯籠は、西光寺の鎮守八柱神社の社宝で高さ2.8mあり裏面に
「応永(おうえい)28年8月8日(1422)願主敬白」の刻銘があり、室町時代初期の作とされます。
願主は不明。
当時の様式の多くは、丸柱の中央に周帯を有するものですが、八角柱は珍しく笠を持ち火袋には四仏が彫られていて優美な意匠を凝らしたもので特に珍重される背の高い灯籠です。重要文化財指定。
足の病に草鞋(わらじ)をお供え
仁王尊(におうそん)
仁王尊 西光寺跡地のお堂に祀(まつ)られている石の仁王尊で、そのうちの一体は、昔、山崩れの際に地下に埋没されたといわれています。
毎年7月1日の千日会(せんにちえ)には、足の病を癒してくださると言い伝えがあり、この日には草鞋(わらじ)をお供えする風習があって平癒(へいゆ)を願う参拝者が今も絶えません。
大正天皇が立たれた
御幸山(みゆきやま)
御幸山(みゆきやま)
鏡神社の東側より細道を登ると古松がたくさん生えている所へ出ます。左右に古松を見ながら坂道を登る途中に「御野立(のだち)所」・「御幸山」と書かれた石碑が目につく丘の上に出ます。
ここが御幸山(みゆきやま)で、以前は宮山(みややま)と呼ばれましたが大正6年11月14日に近江湖東の地で陸軍の特別大演習が行われた時、大正天皇が、この宮山から大演習を統監(とうかん)されました。
当時の滋賀県知事が、この宮山を「御幸山」と命名し今日にいたってます。
天日槍(あめのひぼこ)を祀る重要文化財 義経も参拝した
鏡神社(かがみじんじゃ)
鏡神社
この神社の主祭神は、新羅(しらぎ)国の王子、天日槍(あめのひぼこ)で、相殿神が天津彦根命(あまつひこねのみこと)及び、天目一箇神(あめのひとつのかみ)が奉斉されています。
天日槍は、この鏡の地で陶器に適した土をみつけ従人達を、この地に留め、新羅の優れた製陶技術を伝え広めたと日本書紀に記述されています。
本殿は、南北朝時代の建築で国の重要文化財となっています。
鏡神社の御利益(ごりやく)は→
源頼朝・北条政子・足利尊氏も宿泊、紀伊徳川家の定宿、和宮様もご休憩された
中山道 本陣跡(ほんじんあと)
本陣跡
大和・奈良・平安・鎌倉・室町時代にかけ東山道(とうさんどう)の駅(うまや)として鏡は宿場として指名されていましたが、江戸時代(中山道になってから)は、宿駅から外されてしまい守山宿と武佐宿の間(はざま)の宿となりました。しかし、本陣、脇本陣が置かれ、特に紀州候(紀伊の徳川家)の定宿(じょうやど)で、皇族、将軍家の御名代(ごみょうだい)、お茶壷道中(おちゃつぼどうちゅう)をはじめ、多くの武士や旅人の休憩、泊の宿場でした。
和宮様の御降嫁の折も、この本陣でしばらく休まれていることが記録に残っています。
また、守山宿と武佐宿、それに石部宿(東海道)の助郷(すけごう)の役目も仰せつかっています。
このように宿場の指名からはずされながらも鏡は宿場町としての賑わいをみせていたため、間の宿なのに旅人を泊めていると、守山宿や武佐宿から道中奉行への申立があったということも記録に残っています。
鏡王(かがみのおお)を葬る
真照寺(しんしょうじ)
真照寺 日本書紀には、鏡王(かがみのおお)の娘、額田王(ぬかたのおおきみ)と記されていることから、社伝をみると鏡王は鏡神社の神官で、その娘、鏡王女(かがみのおおきみ)や額田王は、この神官家で育てられました。
万葉の有名な女流歌人、額田王は、この地の出身といえます。
父の鏡王は、後の壬申(じんしん)の乱(672)の時、大海人皇子(おうあまのおうじ)後の天武天皇側につき戦死し、この真照寺に葬られています。
6~7世紀ころのもの
広谷池古墳(ひろたにいけこふん)
広谷池古墳
この地域は山ろくの至る所に古墳がみられ、6~7世紀ころのものです。古代には豪族等が群居していたことがわかるますが、残念なことにほとんどが破壊されていて2~3程度が現存している中の一つです。
鏡山から舌状(ぜつじょう)に延びてきている丘陵先端部に位置するところで、大きさは約4mの円墳で横穴式石室、両袖式の南に開口し全長約5.5mとなっています。
時期や出土遺物は残念ながら不明です。
湖国百選の一つ
星ヶ崎城址(ほしがさきじょうし)
星ケ埼城址 星ヶ埼城(ほしがさきじょう)は、鏡氏の居城で、佐々木定重(ささきさだしげ)を祖としてその子久綱(ひさつな)の居城でした。
観音正寺(かんのんしょうじ)の城の出城とか砦(とりで)ともいわれているもので、今は昔を偲ぶ石垣が西側に残るのと、わずかに礎石らしきものが目につきます。
眼下には軍事上の要所として城があったこともうなずける湖国百選の一つに選ばれています。
古道から東山道(とうさんどう)-中山道-国道8号今も続く
街道と鏡の里(かいどうとかがみのさと)
街道と鏡の里
旧義経街道と呼ばれた東山道(とうさんどう)86の駅(うまや)のひとつ「鏡」(かがみ)の宿場は、大和・奈良・平安・鎌倉・室町時代にかけて大変栄えておりました。
589年継体(けいたい)天皇が近江臣満(おうみのおみみつ)を東山道(とうさんどう)に遣わして蝦夷の国境を観させた(日本書紀)時、この街道を通ったと言われています。それ以前にはすでに道が拓かれており、多くの人が行き来していたことを伺うことができます。(古道)
江戸時代に入り、中山道(なかせんどう)となってからは、宿駅から外され守山と武佐宿の間(はざま)の宿となりました。
今、この鏡の街道の往事を偲ぶ面影は残っていませんが、只、本陣はじめ旅籠であったと言われる屋号の家が残っています。
それが、西から、桃花屋、加賀屋、
白木屋、樽屋、吉野屋、吉田屋、大黒屋、京屋、亀屋、その外商家、旅籠の区別がつかないものに河内屋、新屋、二階堂、玉屋、虎屋があり、商家と思われるのに壷屋、足袋屋等です。
古道から東山道-中山道-国道8号線と呼び名は変わってきましたが、今尚連綿と続いている街道。鏡は街道によって拓かれた里で、ここを往還する人は、それぞれ夢を描きながら通り、人々によって歴史がつくられ文化が生まれ守られてきたといえます。
鏡の里名所探訪MAP>> 鏡の里名所探訪MAP
義経元服の地 鏡(かがみ)の里周辺の見どころ http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/kagami.html

鏡の宿 義経元服ものがたり

2012年06月29日 | 番外編
  鏡の宿 義経元服ものがたり 滋賀県竜王町観光協会
  鏡の宿 義経元服ものがたり
源義経 元服の地
東山道 鏡の宿(とうさんどう かがみのしゅく)
 源義経(みなもとのよしつね)元服の地、いにしえの馨りを感じさせてくれる滋賀県竜王町「鏡の里」にようこそおこしくださいました。
鏡の里は、旧義経街道といわれた「東山道」(とうさんどう)八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より多くの旅人たちの休、泊の宿場でありました。
平安後期、平治の乱で源氏が敗れ、平氏が台頭、世はまさに平家一門の栄華を極めた時代でございました。
しかし、密かに平家の滅亡を夢み、京の鞍馬でただひたすら剣術の稽古に励む少年がおりました。
その名は遮那王、幼名を牛若丸と申します。
機熟し、奥州下向の途中ここ「鏡の宿」にて烏帽子を着け、ただひとりで元服したと言われております。
今もこの地には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」などが残っております。
 
鏡の宿 義経元服ものがたり
義経元服のいわれ
それではこれより源義経(みなもとのよしつね)のお話をいたしましょう。
義経は、幼名を牛若丸と言い、源氏の総領である源義朝(みなもとのよしとも)の九男として生まれました。母は、義朝の愛妾で九条院の雑仕(ぞうし)であった常盤御前(ときわごぜん)でございます。
父義朝が平治の乱(1159年12月)で平清盛(たいらのきよもり)に敗れた際、母常磐(ときわ)は、今若、乙若、牛若の三人の子を連れ吉野に逃れました。ところが、清盛に母親を質に取られてしまい、母親と子供の命乞いのため清盛の妾の一人となるのでございます。
その後、常盤は清盛との間に女の子をもうけた後、さらに一条の大蔵卿藤原長成(おおくらきょうふじわらながなり)に嫁ぎ男子を産んでおります。
牛若丸は京の鞍馬寺に預けられますが、継父の大蔵卿藤原長成が義経の鞍馬での扶持(ふじ)を負担いたします。
母常磐と継父長成、鞍馬の阿闍梨(あじゃり)も牛若に僧になることをすすめますが自分が源氏の嫡流(ちゃくりゅう)と知り、兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を読み剣術の修行に励むのでございました。


承安(じょうあん)4年3月3日(1174)の暁(あかつき)のこと、京の鞍馬寺で「遮那(しゃな)王」と名乗っておりました牛若は、金売り商人吉次(きちじ)と下総(しもうさ)の深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して奥州の藤原秀衡(ひでひら)の元へ出発いたしました。
なぜ奥州であったかと申しますと、継父藤原長成の従兄弟の藤原基成(もとなり)は後白河法皇(ごしらかわほうおう)の重臣で、奥州藤原秀衡の妻に自分の娘を嫁がせておりました。
この縁で義経は奥州藤原氏と関係を持ったのではないかと考えられております。

「平治物語へいじものがたり」(鎌倉初期の作)では、義経は吉次に「この身を、いかようにせんとも奥州のゆゆしき人(藤原秀衡)のもとに、連れ行かんことを望む」と頼み込んだとございます。

一方「義経記ぎけいき」(室町初期の作)によると、吉次に、遮那王がひそかにわが身分を明かしたところ、吉次から「御曹司が今のままでは、まこと危うし。奥州に下向なさるべし」と熱心に薦められ、鞍馬寺から下ったとございます。

義経記は、平治物語より100年ほど後に創作されたものですから、やはり史実に則っているのは平治物語の方かもしれません。

その夜、近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まります。長者は駅長(うまやのおさ)とも呼ばれ、弥傳屋敷は宿名を「白木屋」(しらきや)と称しました。

平治物語に「生年十六と申す承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて、東路遙に思い立つ、心の程こそ悲しけれ。その夜鏡の宿に着き、夜更けて後、手づから髪(もとどり)取り上げて、懐(ふところ)より烏帽子取り出し、ひたと打著(うちき)て打出で給えば、陵助(みささぎのすけ)、早や御元服候ひけるや。御名はいかにと問い奉れば、烏帽子親も無ければ、手づから源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とこそ名告(なの)り侍(はべ)れと答えて」とございます。

では、なぜ、ここ鏡の宿で元服をしたのか?と申しますと・・・

鞍馬でただ一途に平家滅亡を心に誓って剣術の稽古に励んでおりました牛若丸は、金売り吉次より奥州の藤原秀衡が会いたがっているという事を聞き機運到来と喜び勇んで鞍馬を後にいたしましたが、鏡の宿に入ってまもなく表で早飛脚の声をよくよく聞けば鞍馬よりの追手か平家の侍たちか、稚児姿(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若を探しているではございませんか。
これは我等のことに違いない。このままの姿では取り押さえられてしまいます。
急ぎ髪を切り烏帽子を着けて東男(あずまおとこ)に身を窶(やつ)さねばと元服することを決心するのでございました。

そこで白木屋の近くで烏帽子を折る烏帽子屋五郎大夫(えぼしやごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を注文いたします。
左折(ひだりおり)とは烏帽子の頂を左方に折り返して作ることで、源氏は左折を用い、平家は右折のものを用いておりました。しかし今は平家の全盛期で、源氏の左折の烏帽子は御法度(ごはっと)で五郎大夫もためらいますが牛若のたっての願いと、幼い人が用いるものなれば平家よりのお咎(とが)めもあるまいと引き受けるのでございます。

烏帽子の代金に牛若は自分の刀を烏帽子屋に与え白木屋に戻ります。

烏帽子屋五郎大夫は見事な刀を賜ったと喜びますが、その妻は刀を見て涙を流すのでございました。
その刀は古年刀(こねんとう)で源氏重代の刀剣でございました。

実は五郎大夫の妻は、野間の内海(のまのうつみ)にて果てた義朝の家臣鎌田兵衛正清(かまたひょうえまさきよ)の妹(あこやの前)でございました(母は義朝の乳母)。平治の乱に敗れた義朝は鎌田正清と共に、鎌田正清の娘の舅(しゅうと)父子の裏切りで殺害されております。

夫が受け取った刀は、常盤御前(ときわごぜん)が腹より三番目に出生した牛若(義朝の九男)の護り刀(まもりがたな)として左馬頭(さまのかみ《義朝》)が授(さず)けたものでございました。(武家にて男子出生すれば必ず守刀として刀を授ける習慣がありました)その使いを自分がしたのですから確かに見覚えがございました。

「源家繁栄の世にてあらば、牛若君が身をやつして流浪することもなきものを、何とおいたわしいことでしょうか。」
と夫に打ち明けるのでございました。

その事を聞いた烏帽子折は驚嘆落涙(きょうたんらくるい)し刀を妻に渡し、

妻は喜び早速牛若の宿を訪ね、「この刀を御受納ありて」と、護り刀を返し主従の名乗りを挙げるのでございました。牛若も、なんと不思議な縁(えにし)かと喜びました。

あこやの前が帰った後、牛若は、鏡池の石清水(いわしみず)を用いて前髪を落としました。

しかし烏帽子親も無く(通常は二人の烏帽子親が必要)考えたところ源氏の祖先は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)
、新羅明神(しらぎみょうじん)の前で元服をしたと聞く。義経の四代前の八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)は、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神前で元服し、その弟の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)は、新羅大明神(しらぎだいみょうじん)の神前で元服式をあげたと言われます。
ならば、牛若もそれにならい鞍馬の毘沙門天(びしゃもんてん)と、氏神の八幡神(はちまんじん)を烏帽子親にしようと思い、太刀(たち)を毘沙門天、脇差(わきざし)を八幡神に見立て、自ら元服式を行ったのでございます。

その時牛若丸16歳、鳥帽子名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とし、天日槍(あめのひぼこ)新羅大明神(しらぎだいみょうじん)を祀る鏡神社へ参拝し源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられております。


その後、次々と武勇を発揮していく義経は、清盛の子である、平宗盛(たいらのむねもり)父子を捕虜として鎌倉に向かいます。しかし、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越(こしごえ)から京に引き返します。

その帰路、「鏡の宿」を通り過ぎた篠原(しのはら)地先において、平宗盛(たいらのむねもり)父子を断罪したのでございました。
その地には宗盛の首を洗った「首洗いの池」又の名を「かわず鳴かずの池」があり、胴だけ残されたので宗盛塚も建てられています。ここが平家終焉の地でございます。

義経が元服した「鏡の宿」と「平家終焉の地」は滋賀県のほぼ同じところにあるのでございます。
それはどうしてでしょうか?

義経は、元服後も何度か「鏡の宿」に立ち寄っておりますが、その日は義経自ら元服した「鏡の宿」を血で穢(けが)すのを避けてわざと通り過ぎたと伝えられております。

謡曲「烏帽子折」(えぼしおり)でも、鏡の宿場での元服が表されておりますが、今もこの地には、元服の時に使った盥(たらい)の底と、水を汲み上げた池(元服池)、烏帽子を掛けたとされる松(鏡神社境内にある松)が残っております。
義経の元服池 義経宿泊の館「白木屋」 義経元服の盥(たらい)
義経の「元服池
(げんぷくいけ)
源義経宿泊の館
白木屋」跡
(しらきや)
義経元服の折使用の
盥(たらい)
鏡神社 烏帽子屋五郎大夫屋敷跡 烏帽子掛松
元服の折参拝の
鏡神社
(かがみじんじゃ)
烏帽子屋
五郎大夫の屋敷跡

(えぼしやごろうたゆう)
烏帽子掛松
(えぼしかけまつ)
元服後の義経公を祀る「八幡神社」 とがらい祭り 平家終焉の地
元服後の義経公を祀る
八幡神社
(はちまんじんじゃ)
義経公を偲んで今も残る
とがらい祭り
平家終焉の地
「宗盛塚」(むねもりづか)
「蛙なかずの池」
謡曲「烏帽子折」(えぼしおり)
皆様は「烏帽子折」(えぼしおり)と言う謡曲をご存知でございましょうか?能で謡う謡(うたい)のことでございます。
「烏帽子折」では、牛若丸は近江の「鏡の宿」で元服して、美濃「赤坂の宿」で強盗の熊坂長範(くまさかちょうはん)を討ち取ったとなっております。
ここでは鏡の宿の件(くだり)のみをご紹介させていただきましょう。

謡曲「烏帽子折」を見る→
判官贔屓(ほうがんびいき)
世に判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉がございます。
判官(ほうがん)とは、義経が後白河法皇から検非違使尉(けびいしのじょう)という裁判官と警察官を兼ねた様な官位を賜ったということから義経のことを指す言葉になりました。
義経は平氏との戦で多くの手柄をたてていましたが、この勝手に官位をもらったという事が兄の頼朝から疎(うと)まれ、追われる原因のひとつとなります。
最期(さいご)には平泉にあった衣川(ころもがわ)の館で自害いたしますが、その後、義経は悲劇の英雄として人々の同情を集め多くの伝説や物語に画かれました。
義経は実は生きて北海道から蒙古(もうこ)に渡り成吉思汗(ジンギス・かん)となったという説もございます。
全国の義経にまつわる地域と人物をご紹介いたしましょう。


義経年表と全国の義経ゆかりの物語や伝説を見る→
牛若丸のうた
皆様は「牛若丸のうた」というのがあるのをごぞんじでございましょうか?
京の鞍馬では毎年義経祭に奉唱されているそうでございます。
この中にも「鏡の宿の元服」が表されております。
牛若丸のうたを見る→
鏡の宿 義経元服ものがたりhttp://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku.html

近江 西大路陣屋(仁正寺陣屋)

2012年06月29日 | 平山城

 

西大路陣屋は中野城の城域にあり、案内板と共に石碑が建つだけで、陣屋の藩庁跡はゲートボール場となっている。



 唯一京都の相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築されている。

城郭の歴史 西大路陣屋は西大路藩市橋家1万7千石の陣屋で、元々仁正寺(にしょうじ)と記していたものを文久2年(1865)に改称したものである。

 西大路藩は元和6年(1620)市橋長政が野洲郡,蒲生郡などに2万石を封され、この地に入部し、築城したことに始まる。
市橋家は元々織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いや大阪両陣での活躍により、元和2年に越後三条に4万石をを封された。同6年3月藩主長勝が死去し、養子の長政は減封され近江国に移り、戦国期の蒲生氏の居城・中野城に注目し仁正寺陣屋を構えた。

 元和8年幕命により所領2千石を同族の市橋長吉に分与し、2代目政信は弟・政直に1千石を分与し、1万7千石となる。その後11代続き幕末を迎えた。明治4年の廃藩置県により西大路藩は廃された。

 陣屋は明治7年に朝陽小学校となり、建物はそのまま使用されたが、大正5年に小学校が移転・新築され陣屋の建物は京都相国寺の塔頭である林光院に移築された。
林光寺の本堂


中野城(日野城) 近江国(日野)

2012年06月29日 | 戦国山城

中野城の城址碑

所在地:旧甲賀郡日野町西大路 )      map:http://yahoo.jp/4WtQBr

現 状:林・ダム

区 分:平山城

築城期:南北期 大永年間(1521~

築城者:蒲生秀貞

城 主:蒲生秀貞・蒲生氏郷

遺 構:曲輪・土塁・堀・(石碑・説明板)

目標地:日野ダム

駐車場:日野ダム駐車場 

訪城日:2013.6.28

お城の概要

 中野城は蒲生氏郷の生まれた城として知られている。
城址は昭和40年日野川ダムの建設時に多くの土塁が壊され、本丸の北側半分を除いて大半が水没し、現在では稲荷山と石垣及び空堀の一部が残されている。

 中野城の北には、隣接して西大路藩市橋家1万7千石の西大路陣屋(仁正寺陣屋)がある。

近江 中野城(日野城)

歴 史 

伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。

 貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。

その子秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。

 貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。

この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を高郷は中野城を居城とした。
秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。この後、高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。

 定秀の子賢秀は信長に仕え、本能寺の変の際には安土城二の丸で留守を預かっていた賢秀は、秀郷と図って信長の妻女を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘には応じなかった。

 

 その後、秀郷(後の氏郷)は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正12年(1584)には伊勢松坂12万石の領主となり松ヶ島城へ移り、その後松坂城から会津黒川城42万石(後の若松城)に移封された。
 
 日野城には、蒲生氏あとに田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長8年(1603)には廃城となった。

蒲生氏の居城跡。中野城ともいいます。築城以前の蒲生氏の城は、音羽丘陵上にありましたが、蒲生定秀(がもうさだひで)により戦国時代に日野城が築かれました。築城にあたっては、既存の日野市街を城下町とし、城のある西大路付近を武家屋敷地帯、日野市街を町屋敷地帯としたといいます。
 明智光秀の謀反によって殺された織田信長の妻子が、身を寄せたのは日野城です。蒲生氏郷はこの城で生まれ、若くして戦国武将の器量を備えていたので、豊臣秀吉に抜擢されて伊勢12万石の領主となって日野城を去りました。江戸時代に廃城となり、付近の農民が開墾して城内はすっかり姿を変えました。城の遺構は、日野川ダムの建設により、現在ではほとんど見ることができませんが、ダム北畔に本丸跡石垣が少し残っています。

      

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 佐々木南北諸士帳  

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