城郭探訪

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家康最大の危機 「神君伊賀越え」

2012年06月10日 | 番外編
家康最大の危機 「神君伊賀越え」
 
 
織田信長が本能寺に消えた天正十年六月二日のこと。上方に遊んでいた徳川家康は変の報を受け、「伊賀越え」と呼ばれる生涯最大とも言える危機に直面する事は有名です。ここでは家康が通過したと思われる地の写真画像を交えてその足取りを追っていきますが、このルートには諸説あり、現在も特定されてはいません。従って、以下の内容はあくまでも管理人の私見としてご覧下さい。
神君伊賀越えマップ
 

「伊賀越え」とは

 天正十年六月二日早暁、京都本能寺に宿泊していた織田信長は、その重臣明智光秀に襲われ四十九年の人生を終えた(本能寺の変)。これに先立って上方を遊覧していた徳川家康は、この日信長への御礼言上のため堺の松井友閑屋敷を発って京都へ向かっていたが、河内飯盛山付近でこの変報に接した(場所には異説あり)。

 この時点で家康に同行していた面々は、軍勢もなく平服ではあったが、酒井忠次、石川数正、本多正信、本多忠勝、榊原康政、井伊万千代(直政)、天野康景、大久保忠佐・忠隣、高力清長、服部半蔵、渡辺半蔵、鳥居忠政、長田伝八郎(永井直勝)等という、徳川ファンが見れば垂涎ものの錚々たるメンバーであった(異説あり)。これに、信長から案内役として付けられた長谷川秀一(竹丸)、家康に従ったばかりの駿河江尻城主穴山梅雪、京都から急ぎ変報を届けてきた茶屋四郎次郎清延がいた。

 家康は報せを聞き驚愕、やがて「弔い合戦をしたくてもこの人数、土民の槍に掛かって果てるよりは京都知恩院に入ってそこで腹を切ろう」と一旦は死を決意するが、本多忠勝が一人反対して「信長公への報恩は、何としてでも本国へ戻り、軍勢を催して明智を誅伐すること」と力説、家康はじめ一同もこれに同意したと伝えられている。

 さて帰還についての相談となったのだが、一丸となって行動するかと思いきや、穴山梅雪主従十二名は別行動を取った。そこで家康は梅雪に別れを告げ、一路三河へと急ぎに急いだのだが、この家康の三河までの苦難の道中のことを世に「神君伊賀越え」と呼ぶ。なお、梅雪は家康一行の後で木津川にさしかかったが、草内渡し付近で土民の襲撃を受け落命することになる。

 それでは、家康一行が梅雪らと別れてから三河へ至るまでの道筋を一つのコースとして設定し、現地の風景写真などを織り交ぜてご紹介していこうと思う。スタート地点は河内飯盛山西麓である。


箕作城(箕作山城)    近江国(五個荘)

2012年06月10日 | 平山城

観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。

支城の箕作城が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に大きな影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえる。たった一夜で箕作城が落城すると、観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びた。

箕作城祉へは、清水鼻,山本,伊野部地区の3カ所の登り口があります。

 伊野部ルート。建部神社(標高125m)から、清水山の箕作城祉までは標高差200m。

主郭下の石垣。三角点324.7m

清水山の 山頂の新鉄塔の西側下に石垣残ります、しかしながら観音寺城攻めの前哨戦で織田氏と六角氏の両軍が激戦をしたという史実を思わせる城の規模には感じません。

縄張り図(滋賀県中世城郭分布調査より)

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箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

観音寺城の支城。六角定頼が天文十九年(1550年)に築城しましたが、永禄11年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました。

  箕作城の石碑
箕作城跡より北東尾根を下り第2鉄塔付近に箕作城の石碑。石碑には 大正11年9月 滋賀懸保勝会

探訪 箕作城祉 20120610

 

 箕作(みつくり)城の戦い

  箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。そこで秀吉は蜂須賀正勝の夜襲案を採用することにした。

1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、いわゆる火攻めを行うというものだった。それと同時に秀吉隊も手に松明をかざして一斉攻撃を展開したために城兵たちも防ぎきれず、2百余人の犠牲者を出して退散してしまったのである。

この箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。翌日になって義賢父子が逃亡したことがわかると六角氏重臣の平井定武・後藤高治らもことごとく信長に降った。

最後まで抵抗の姿勢を示した日野城主の蒲生賢秀(氏郷の父)も、神戸友盛の説得によって降伏した。

観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。

9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった

戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。

木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。