城郭探訪

yamaziro

国史跡 「北近江城館跡群」三田村氏館跡(三田町)

2012年06月03日 | 館跡

 

国史跡 「北近江城館跡群」三田村氏館跡(三田町)
1.歴史的概要
 当館跡の城主である三田村氏については、元京極氏の根本被官であり、江北を支配し近江守護となった京極高清に仕え、明応5年(1496)には浅井直種らとともに美濃斉藤利国の援軍として出兵『船田後記』するなど、各地を転戦して功を挙げている。
 その後、浅井氏の江北での勢力の拡大に対して、一族の中に反感を持つものが出て内紛を生じたようで、大永5年(1525)、六角定頼が江北に侵攻した際に一族が分裂し、浅井方についた三田村氏はその後、浅井氏の江北における治世の拡大とともにその中で重きを成して行ったとされている。
 三田村氏館跡の最後の城主である三田村左衛門は『嶋記録』によると今井定清と縁戚関係にあったとされ、『信長公記』によると元亀元年(1570)姉川の合戦の際には横山城の城守を務めていたとされるが、信長の進行により小谷城に撤退しており、姉川の合戦後は小谷城中ノ丸に篭もっていたが、天正元年8月(1573)小谷城落城の際に秀吉を通じて信長に降るも容れられず、一族とともに処刑されたと『総見記』は伝えており、この段階で三田村氏館跡は廃城になったと考えられている。
 なお、処刑された三田村氏一族を含む77名が、三田町内にある通称西三昧に葬られたと伝えられており、現在は当地に碑が建っている。
 姉川の合戦は、姉川を挟み、長浜市野村町付近で浅井長政軍と織田信長軍が対峙し、三田町付近で越前から援軍として駆けつけた朝倉景建軍と徳川家康軍が対峙し戦端が開かれたとされている。信長公記巻三には、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田の郷に移りと記されており、それぞれの軍の位置関係等から三田村氏館跡に朝倉景建軍の本陣が置かれたと考えられる。

土塁北辺から西辺(北西から)

2.遺構概要
主郭内部の確認調査から明らかになった点の内、特に重要であると考えられるのは、郭内部に基幹的な排水路であると考えられる溝が、土塁と並行してそれぞれ2条検出された点、および土塁の構築時期が2時期に分かれるという点である。
 まず、排水路と考えられる溝についてであるが、溝は、虎口部分で合流し虎口を通り堀へ向かって掘られていたと推測できる。また、溝内から出土した遺物の年代に幅があり、16世紀前半の遺物とともに17世紀以降の遺物も出土している。このことは16世紀前半から17世紀以降のある時期にいたるまで開渠であったと考えることができ、溝が郭内の基幹的な排水路であっため、埋没しないように十分に手入れがなされていたことが推測できる。
 今回検出されたような、郭内部に2条の溝を廻らせる事例は全国的に見ても非常に類例の少ないものである。
 次に、土塁についてであるが、古い段階に造られたと考えられる下層から出土した遺物についてみてみると、古いものは9世紀後半、最も新しいもので16世紀初頭のものが出土している。最も新しい年代を示す資料を下限として土塁の構築時期を推測すると、16世紀初頭以降の構築ということになる。
この時期は、三田村氏と深いかかわりを持つ京極氏が、上平寺(現米原市)に居館を構えたとされる永正2年(1505)から大永3年(1523)と合致するもので、京極氏との係わりの中で三田村氏館跡を構築したと推測することができる。次に新しい段階の土塁についてであるが、古いものは15世紀後半、新しいもので16世紀前葉以降のものが出土しており、土塁の構築時期は16世紀前葉以降であると考えられる。この時期は、江北において、京極氏から浅井氏の時代に移り変わる時期に当たり、三田村氏が浅井氏とともに活躍していた時期と合致する。以上のことから、三田村氏館跡の形成時期を推測すると、京極氏が上平寺に居館を構えた時期に、土塁(防御施設)を伴った館が構築され、その後浅井氏が江北で勢力を拡大して行く時期に、館も防御機能を高めるように土塁の改築がなされたと考えられる。

土塁断面
3.調査・保存の経緯
平成15年7月に開催された「中近世城郭遺跡検討会」において、北近江城館跡群 下坂氏館跡 三田村氏館跡(説明名称「湖北の平地居館群」)に関し、委員より「平地に所在する土塁囲いの城館の期限が、中世まで遡りうるものなのか発掘調査による検証が必要」との指摘を受けたため、三田村氏館跡については平成17年度より、土塁の構築年代、郭内の遺構の状況およびこの年代を把握することを目的として確認調査を実施した。
 調査の結果、前述のとおり、土塁囲いの城館の初現期は15世紀後半から16世紀初頭と考えられ、京極氏との関係が文献上押さえられる時期にあたる。土塁の改築年代および郭内の基幹的排水路の構築時期は16世紀前葉頃と考えられ、江北における政権が京極氏から浅井氏に移り、浅井氏との関係が強化された年代と符合することが確認された。
 また、既に史跡指定されている下坂氏館跡に関しては、下坂氏の系譜を伝える豊富な文献資料から、元京極氏に被官していたものが、政権の移行に伴い浅井氏に被官し、両氏の重臣として活躍したことが明らかであり、発掘調査の結果も、土塁囲いの館の構築時期が京極氏との関係を裏付ける時代のものであると推測されている。

 


探訪【近江水の宝】比叡山延暦寺を歩く

2012年06月03日 | 探訪「近江水の宝」

探訪「近江水の宝」比叡山延暦寺を歩く探訪延暦寺チラシ.pdf

★日時:平成24年6月2日(土)10:00~16:45頃
★集合・受付:【京阪】坂本駅9:30~10:00
★歩行距離:約5km(ただし山坂道)

根本中堂は(標高670m)―坂本(150m)=標高差520m。    (ちなみに大比叡は848.1m)

行程 比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)を比叡山延暦寺・西塔・東塔・叡山ケーブルで坂本へ

http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/ma07/20120427_1.html

探訪【近江水の宝】比叡山延暦寺を歩く

出発式で、県教育委員会文化財保護課 記念物担当木戸氏、北村氏の挨拶。 坂本の歴史を守る会、大津市のスタッフ紹介

    比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)を

日吉神社鳥居の横の石段を・・・いざ延暦寺へ!    花摘堂跡(伝教大師母君の遺跡)

坂本から比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)途中にあります。かって比叡山延暦寺は修行の地として神聖視され、女性の入山を認めませんでしたが、年に一度ここにあった社への参拝ができました。人々は、この地に花を捧げました。

  石仏群で小休止

薬師院跡で小休止戦国玉城のよう!石垣・土塁・縦堀・平削地の廓跡(寺社堂塔500余棟】

 法然堂に到着、約2時間 法然堂で【おせんべい】を、全員に頂戴しました。  坂本の歴史を守る会・文化財保護課より、班分け・スケジュールの説明。

 文殊楼は高い石段を隔て根本中堂の東側にあります。延暦寺の山門にあたり、徒歩で本坂を登ってくると、まずこの門を潜ることになります

根本中堂はその最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂となります。本尊は薬師如来です。

現在の姿は徳川家光公の命で寛永19年(1642)に竣工したものです。ご本尊の前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。

根本中堂の前に!

昭和39年(1964)に山麓坂本の讃仏堂を移築したものです。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祭られています。

青銅の灯篭に【三つ葉葵】の御紋 開運の鐘(連打禁止)

  菩提樹

戒壇院の創建は天長5年(828)、第1世義真座主が僧侶の大乗戒(規律)を受ける施設として建立したのが始まりと伝えられています。延宝6年(1678)に再建されたもので桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、栩葺、裳階付、軒唐破風、和様と唐様が混在した形式を持ち、床は石畳で石造の戒壇が設けられ内陣には得戒和尚釈迦牟尼仏と文殊菩薩像、弥勒菩薩像が安置されています。戒壇院は江戸時代初期に建てられた寺院建築の遺構として大変貴重な存在で明治34年に国指定重要文化財に指定されています。

水琴窟またお堂の前には、水琴窟があり、美しい響きを聞くことができます。

昭和12年(1937)に建立された、壇信徒の先祖回向の道場です。本尊は丈六の阿弥陀如来です。

法華総持院東塔

昭和55年に阿弥陀堂の横に再興されました。伝教大師最澄は日本全国に6か所の宝塔を建て、日本を護る計画をされましたが、その中心の役割をするのがこの東塔になります。本尊は大日如来をはじめとする五智如来が祀られており、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されています。

伝教大師の御廟がある浄土院は、弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した場所です。 東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になります。

現在の釈迦堂は、延暦寺に現存する建築中最古のもので、もとは三井寺の園城寺の金堂でしたが、秀吉が文禄四年(1596年)に西塔に移築したものとなります。

 その後、比叡山鉄道坂本ケーブル山上駅(標高650m)から、坂本駅(150m)へ。

乗車時間はわずか11分の長旅でした。

 

 

 

参考に。

比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、坂本・大津の町並を一望できます。

 

比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、

この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。

最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。

最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。

最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。

特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。

美しい自然環境の中で、1200百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。

昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-」が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しております。

 

 

 

本日の歩数 22,318歩 3時間56分 15.6km
消費カロリー 473.4kcal 脂肪消費量 67.3g
登り2:00・・・ちょっと、疲れました。