登城口
登城口の手前に駐車可
所在地:甲賀市土山町大野字山本 map:http://yahoo.jp/4B_cSq (旧甲賀郡土山町大野】
現 状:山林・空地・宅地
遺 構:曲輪・土塁・空堀・土橋
区 分:平城
目 標:ほかい瓦(会社)
別 名 :
築城者:大野大蔵大夫
:築城時期:室町期
有名城主:大野氏
訪城日:2014.4.6
甲賀の城より
大野山本城は、稲川北側の河岸段丘端部を利用して築かれている。 背後は、平坦で水田となっているが、段丘の端を空堀を設けて防禦し、段丘傾斜部を削平して東・中・西上段・下段と大小4曲輪を横に並べた縄張りとなっている。
遺構は、東の曲輪東側から西上段の曲輪まで高さ約3~5mの土塁が空堀に沿って残っている。 東の曲輪西側にも土塁が残り、この土塁は中の曲輪と共用となっていた。
大野山本城は、土山町大野のうち片山集落の北側、殿の城「トンノシロ」に所在する。集落の北端は自然地形が北から南にかけて大きく落ち込み、段丘状となった部分をうまく利用した縄張となっている。
城へは北側の植林地から進入すると、南奥に東西約90mを測る見事な空堀bが現れる。
土橋を渡り土塁上に立つと、南方集落側を見渡す頂部となる。この土塁aは南側で派生して城内を3区画に分けている。
曲輪ⅠⅡ内部は段丘下部に位置するため、土塁aとの高低差は3~5mを測る。
曲輪Ⅰは約20m四方で隣接する民家の裏庭のようになっている。東辺土塁の外には北端bから続く空堀を伴う。
曲輪ⅡはⅠよりも約2m低くなっており、東西約35m×南北約25mで最も広い曲輪である。現在は下草を残したグラウンド状となっていて、南辺の東端付近に土塁の一部が残る。
現在植林となっている曲輪ⅢⅣは、ともに東西約25m×南北約10mで、堀状の溝で区画され南北に配置する。緩やかな傾斜地で居住性はない。
曲輪ⅢⅣの西側は集落中央を南北に通る道路だが、坂を上りきった付近には土塁の削り残しと思われるcdがあり、さらに西方にも土塁と思われるefがあることから、かつてはすべてが繋がっていた可能性がある。ただ現況を見る限り、城は曲輪Ⅰ~Ⅳまでとするのが妥当である。
稲川を挟んで南方には大野城(大野氏邸)が所在する。
歴 史
河岸段丘端部を利用して築かれた大野氏の本城。
大野氏は、甲賀中惣二十一家の一つ。
大野大蔵大夫をはじめ大野氏の屋敷。大野氏は主君佐々木六角氏が織田氏に滅ぼされて帰農している。
甲賀衆を記したものとして、貞享年間(1,684~7)に編纂された近江の地誌『近江淡海温故録』によると下記のように記されている。
甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並みの家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云うは、釣の陣に神妙の動あり。日本国十の大軍眼前に見及び故、其以来名高く誉れを伝えたり。元来此の忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし故なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し、甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず伝々。
甲賀は都に近く情報が入りやすわりには、山間部にあり、そして常に合戦に関ってきた経験は、後の世に「甲賀者」呼ばれる、「忍者」に発展する素地を備えていたものと思われます。
<甲賀二十一家>
山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家
和田家 上野家 高嶺家 池田家 多喜(滝)家 鵜飼家 内貴家 服部家
ここまでの二十一家を甲賀二十一家とされています。
道路の西側土塁
目 標:ほかい瓦
三叉路に駐車可スペースあり
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌
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