城郭探訪

yamaziro

神明山砦 近江国(伊香・余呉)

2014年04月22日 | 平山城

蜂須賀彦左衛門・木村子隼人が羽柴方の最前線の陣城

 神明山砦は堂木山砦から南西に延びる尾根を約20分ほど登った所にある。
登城道は、堂木山砦から尾根を辿るか、若しくは余呉町火葬場の100mほど西から登山道が延び、この道を10分ほど登ると、堂木山砦と神明山砦の中間に位置する鞍部に出て、更に尾根を10分ほど登る。

 神明山砦は前衛の曲輪群と中核部の曲輪群と2つに分かれており、その間は約100m。前衛の曲輪は50m×30mほどの尾根を削平した簡単な造りで堂木山砦方面の見張り台的な位置づけのようである。
 中核部は大きくは二の曲輪群と一の曲輪に分けられ、二の曲輪群は比高差を利用して階段状に曲輪を連ねた切岸防御を主体とし、一の曲輪は平坦な尾根上に60m×30mの曲輪中央部に土塁を伴った櫓台を配している。
また、一の曲輪背後には2条の堀切を入れ、堀切間の10m×10mの三の曲輪を後方の備えとしている。

 狭い尾根を一杯に使って築かれているが、全体的には堂木山砦と比較すると手狭な感は否めない。いずれの砦も秀吉方の最前線に位置しているが、主力の堂木山砦の後方を固める、あるいは堂木山が落ちた時の備えとして築かれたカ?。

所在地:伊香郡余呉町文室   maphttp://yahoo.jp/VaMvc9

築 城 :天正11年(1583)

初城主:蜂須賀正勝

区 分 :山城

遺 構 :土塁,堀,土橋

城 域 :200m×50m

標 高:295m 比高差:160m 

訪城日:2014.4.20

歴 史

天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、北庄城の柴田勝家は雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として江北に向けて出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら北之庄を発進した。

 勝家軍が越前を発進するのに先んずること約2ヶ月、天正10年(1582)12月下旬、秀吉は美濃・岐阜城攻めの帰路に柳ケ瀬付近を巡視し、翌年1月には柴田勝豊の部下である大金籐八郎と山路正国に天神山に砦を築かせていた

 北国街道を南下し、江北に着陣した柴田軍が行市山を中心とした山麓に展開して砦を築くと、羽柴軍の天神山砦は標高も低く、羽柴軍の他の砦からも突出した形となり、秀吉は天神山砦を捨て木村隼人等に堂木山砦、蜂須賀正勝に神明山砦を築かせて防御ラインとした。

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主郭で

三角点・・・主郭の東側土塁上

熊の爪痕

別所山砦(前田利家・利長陣城)・行市山砦(佐久間盛政陣城)・中谷山砦(原彦次郎長頼)。遠望:玄蕃尾城。(天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。)

下山・・・イカりイソウ 

神明山砦(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


堂木山砦 近江国(伊香・余呉)

2014年04月22日 | 平山城

賎ヶ岳合戦 進め余呉城郭研究会 堂木山砦

堂木山砦は城郭愛好家には、非常に人気の高い城郭です。

日 時 2014420日(日)13:001600

集合場所 長浜市余呉町下余呉1938 はごろも市

交 通 JR北陸本線「余呉駅」下車 徒歩5
内 容 織豊系傑作陣城堂木山砦を詳細現地解説  

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

会 長 田畑喜久弘氏 挨拶 ※雨天決行

定 員 20名(要申込)主催 余呉城郭研究会                                                                                                                                            

 堂木山砦へは余呉町の火葬場の東へ小川沿いの道から山中に入る山道がある。

 堂木山砦は余呉にあって、賤ヶ岳から行市山へと連なる稜線から派生した尾根が、北国街道(国道365号線)付近まで張り出した舌状尾根上、比高150mほどの位置に築かれている。この砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の木村隼人等が布陣した秀吉軍の最前線の砦であると共に、北国街道を押さえる重要な砦である。

とっかかりのない急斜面を登り切る。 ここから砦までは傾斜の緩やかな尾根筋を辿るが、道は無くなり登り難いことこの上ない。

入城前に、西の堀切で・・・講師:長谷川博美氏より概要説明中!

歴  史

 天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、北庄城の柴田勝家は雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として江北に向けて出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら北之庄を発進した。

 勝家軍が越前を発進するのに先んずること約2ヶ月、天正10年(1582)12月下旬、秀吉は美濃・岐阜城攻めの帰路に柳ケ瀬付近を巡視し、翌年1月には柴田勝豊の部下である大金籐八郎と山路正国に天神山に砦を築かせていた。

 北国街道を南下し、江北に着陣した柴田軍が行市山を中心とした山麓に展開して砦を築くと、羽柴軍の天神山砦は標高も低く、羽柴軍の他の砦からも突出した形となり、秀吉は天神山砦を捨て木村隼人等に堂木山砦、蜂須賀正勝に神明山砦を築かせて防御ラインとした。

登ること約20分、植栽人口林の中に堀切と土塁の壁が現れる。

所在地:伊香郡余呉町堂木 maphttp://yahoo.jp/3bzoGP                                                                             築城期 :天正11年(1583)
初城主:大金籐八郎,山路正国
区 分:山城(陣城・砦)
遺  構:土塁、
堀切
城 域:150m×50m
標 高:238m 比高差:120m 
訪城日:2014.4.20

 
 砦は4つの曲輪で構成され、主曲輪を中心に尾根の北側に1つ、南に2つの曲輪を配置しているが、柴田軍の布陣する山並みと尾根で繋がる北の曲輪と主曲輪は、周囲に高い土塁を廻らせ堅固な守りとしている。
両曲輪とも東側(羽柴陣側)に平虎口を設け、二つの曲輪を食い違い虎口で接続している。

 通常、城砦の縄張りがされる際、曲輪には外部と繋がった2つの虎口が設けられるものであるが、ここ堂木山砦の中核をなす曲輪にはその虎口が1つしか設けられていない。
 こんな所にも堂木山砦が最前線に位置する危機感とともに、賤ヶ岳の戦いでは羽柴軍が守りに徹していたことが窺える。

 

堂木山砦(遠望)・・・余呉湖岸より

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、講師:長谷川博美氏の現地説明・見学会レジュメ

本日も訪問、ありがとうございました


沖島の歴史

2014年04月22日 | 番外編

歴史年表

時代 西暦 主な出来事
奈良時代 713 藤原不比等が沖島に奥津島神社を建立
奈良末期 恵美乃押勝が反逆の罪に追われ、一族をつれ沖島に流される
「淡海の海 奥津島山奥まりて わが思う妹のこと繁けん」  万葉集 柿本人麻呂
平安時代 1159 保元・平治の乱で敗れた源満ち仲の落ち武者七人が沖島に漂着して住みついた『落人伝説』
堅田漁民の師範のもとに、漁業を、沖合から対岸にかけて拡張し、漁具・漁船の改善をはかった
室町時代 1336 沖島は南朝新田氏の再起の根拠地となった
1443 八代将軍足利義政は、沖島に番所を設け、湖上航通の取締を命じ今舞の局を沖島にかくまった
1467 応仁の乱に破れた堅田漁民が沖島に逃れ、復帰をはかった
1535 佐々木六角氏やその家臣池田大和守の御使や中間がしばしば沖島に出向いている。
塩・材木・兵糧米・軍事用の物品の搬送にも動員され沖島の船・船頭がこれにあたっていた
1566 浅井長政が沖島惣に宛てた書状の中で、船舶の通航を保障するとともに矢銭(軍事課銭)を
免除することを通達している
1569 沖島は六角氏の軍事編成の中で船舶般送部門を担当された
1570 織田信長は浅井氏攻略戦のさい沖島惣中のもつ足の早い船三艘を動員された
1573 安土城造営当時より、沖島・奥嶋の一帯は軍事調練の場として活用されていた
織田信長が小谷城を攻撃するとき、沖島に居住する武士(漁師)に小谷城の裏山からの攻撃を命じた
信長より申出通りの褒美(漁業権)を永久に頂戴して帰郷した
1574 信長より漁業権を認定した上で警固も義務づけられていた
1579 沖島は特権と商業的利潤を得ていることにより御礼米という形で安土へ進上することを指示
1580 信長は沖島大地曳編漁獲魚献上を受けその礼状をおくっている
1590 豊臣秀吉は大津の浜で大地曳網の天覧を沖島・堅田の漁師に命じた
1592 秀吉は朝鮮出兵に際して琵琶湖周辺から水軍を徴発、沖島からも従軍者を出している
江戸時代 1600 沖島は家康の側についた。家康は関ヶ原の戦いの戦勝の祝いに沖島の住民から白米を受け取る
1734 享保十九年、寒側辰清はその著近江興地志に「漁人多く住み その島の石をとってこれを売る
おのが居を亡すものなりというべし」と書いてみる
1773 堅田西乃切と沖島の間に漁場をめぐる論争が起こった
1782 堅田小番城の釣り漁師が沖島の漁場で釣漁を許可してくれるよう願い出る
1805 田畑の開墾が必要となり、対岸に求めている
1822 堅田の釣り漁師が沖島の網場を荒らす
1852 沖島の救主ともいわれた茶谷龍城氏が西福寺で生まれた
1855 対岸の宮ヶ浜の平地三町余を田畑化し年貢を貢納することを申請した
安政年間に沖島は大火災にあい、住宅再建
明治時代 1875 県知事は島民に永代湖上借区の免許状を与える
1887 島内で石材採掘がさかんに行われた
茶谷龍城氏父業を継ぎながら開業医として島民の健康に意を用いた
1889 蒲生郡島村沖島になる
1893 島村立沖島尋常小学校開校式
1896 県内大雨。史上最大の水害
1902 県が漁業法を発布
1904 南郷洗堰の建設。湖面の水位が低下する
1905 沖島尋常小学校に水産補習学校が付設
1908 沖島が専用漁業免許状を受ける
1909 沖島343番地に沖島小学校が新築される(旧校舎)
1910 漁業法が施行される
大正時代 1912 第二琵琶湖疎水完成
1914 共有山林大岩ガ鼻の石切場権利の譲渡を受ける
石材販売組合が組織された
1921 沖島防波堤改修工事
1923 石材価格が最高になる
昭和時代 1928 沖島電灯会社設立。沖島に初めて電灯がついた
アメリカ産の川マスが琵琶湖に放流される
1929 琵琶湖産コアユを東京へ空輸
1932 栗谷に新港が建設された
1935 第一回琵琶湖対策会議
1938 沖島郵便取扱所開設
1940 沖島郵便局と改称  沖島尋常小学校と改称
1945 失火によって沖島発電所が全焼
1947 関西配電により水中ケーブルで送電が開始された
沖島中学校を併設。島村立沖島小学校と改称
1949 漁業法改正 第一種共同漁業の免許を得た
1951 島村を廃し、蒲生郡八幡町に編入
専業漁場を返還し、共同漁業権が免許された
1953 沖島港が第一種漁港に指定された
1955 153世帯 808人
1960 PCB被害(魚・シジミ)
1961 新洗堰完成
1964 琵琶湖大橋開通
1965 152世帯 747人
1968 琵琶湖水質汚濁防止連絡会議。琵琶湖総合開発第一次
1970 この頃から木造船からプラスチックが使用されるようになる
1971 琵琶湖のゴミ総ざらえ運動
1972 琵琶湖を美しくする運動発足
1973 新漁港着工 淡水赤潮発生
1974 琵琶湖総合開発により近代的な漁港が造成される
1977 赤潮発生。アユ一万匹死ぬ。合成洗剤追放運動
1979 琵琶湖条例ができる
1981 新漁港完成。赤潮発生8カ所
1982 沖島に浄化センターが完成
平成時代  1994 異常渇水。マイナス123センチ(9月15日)
1995 栗谷に沖島小学校の新校舎が完成。竣工式が行われる
2008

沖島保育所休所 小学校内に沖島幼稚園開園、柔軟な通学区域の制度が始まり、八幡小学校区から1名転入
3月末、通学船「わかば」廃船