城郭探訪

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大名刻印石、山科で続々確認 毛利家と京極家

2014年04月18日 | 遺蹟

大名刻印石、山科で続々確認 毛利家と京極家

(左)「一に◯」に二が付いた刻印石。採石場の中でグループ分けをしていたと思われる。(右)新たに見つかった「四つ目」の刻印石。四角の中に◯が描かれている(京都市山科区)

 京都市山科区大塚の山中で見つかった採石場跡で新たな大名刻印石が続々と確認されている。同じ大名家の石で従来と異なった刻印があり、山中でグループ分けしていた可能性がある。石垣の専門家は、伏見城や大坂城の石垣のために時代を経て採石してきた石切り場とみている。

 地元住民らによる調査グループが、毛利家を示す「一に◯」の右横に「二」の数字が刻まれた石を初めて発見した。また京極家とみられる「四つ目」の石も新たに2個見つかった。そのうち一つの刻印には四つの菱の中に「◯」が入っていた。石を搬出したとみられる谷筋では、石を割る際に入れる「矢穴」が残った石がいくつも見つかった。

 新たな刻印石の発見によって、毛利家と京極家の採石範囲が特定された。現地で調査した森岡秀人・日本考古学協会理事によると、自家の採石範囲を示す刻印石で、「一に◯」の「二」は毛利家の中で4組あったうちの1グループを示しているという。新たな「四つ目」も京極家の別グループの採石範囲とみられる。

 採石した時代については、古い文献に山科で石垣に自然石を使った豊臣秀吉の時代の伏見城のため採石したとの記録があり、桃山期から活用されていたことは知られていた。

 さらに、矢穴の形状などから江戸期に及ぶことが分かった。1600年前後の石が残っている地帯では、関ケ原合戦後に徳川家が再建した時期の伏見城に使われたとみる。徳川家が再建した伏見城の石は23年の廃城後、淀城や徳川期の大坂城の石垣に使われた。さらに、19年ごろの採石跡もあり、徳川家が再建した大坂城にも使用された可能性が高い。

 森岡理事は「徳川大坂城に使われた石切り場は六甲や九州にあるが、山科は新たな発見となる。豊臣期から徳川期に至る複雑な変遷の中で、複合的に継続して使われたのだろう。今後、淀城や大坂城の石材とのさらなる比較検討などが必要だ」と話している。

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古城山の頂上によみがえった水口岡山城(甲賀市水口町)

2014年04月18日 | 城郭・イベント情報

戦国の山城、3日間の復活 滋賀・甲賀、巨大バルーンで

古城山の頂上によみがえった巨大バルーンの水口岡山城(甲賀市水口町)

 滋賀県甲賀市水口町の古城山(283メートル)に17日、戦国時代末期に築かれ、15年で廃城となった水口岡山城が、高さ11メートルの巨大バルーンとして再現された。日没後はライトアップされ、山頂を訪れた市民らが幻の天守の姿に思いをはせていた。

 2012年には水口青年会議所が段ボールを使って同城を再現している。今回は、城のあるまちづくりを目指し、住民有志らでつくる社団法人「水口岡山城の会」が遊具の巨大バルーンを使い、この日から始まったイベント「よみがえれ水口岡山城2014」で披露した。

 巨大バルーンの城は20日まで山頂に置かれ、麓から見上げることもできる。友人と散歩で山頂を訪れた近くの女性(60)は「短期間で片付けるのはもったいない。城の存在に興味を持ってもらい、観光名所になってほしい」と話していた。

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中ノ尾城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月18日 | 山城
 

高尾城跡と鮎河城跡の間にピークが仮称【中ノ尾城】

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/k4IA2z

遺構等:土塁、横堀、竪堀、虎口

現状:高尾城跡と鮎河城跡の間にピークが仮称【中ノ尾城】山林

築城年:南北朝期

築城者:頓宮弥九郎

歴代城主:頓宮氏

区  分:山城(詰め城・出城)

訪城日:2014.4.13

 現地踏査図:長谷川博美氏作図

 南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

鮎河山城の北にある【仮称 中ノ尾山城】そして西に鷲尾山城(砦)

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所以上といわれていますが、

特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。     これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

  城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。

 鮎河の東端の山すそにあります。南北朝の頃、南朝に属していた頓宮肥後弥九郎が反撃の拠点として築いた要塞跡で、ここで二度にわたり北朝側と戦いましたが、いずれも武運つたなく敗れ去ったそうです。

中ノ尾城・・・ウグイ川より遠景

大河原城・・・鮎河館より遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、長谷川博美現地見学会(説明・レジュメ)

本日も訪問、ありがとうございました