賎ヶ岳合戦 フィールドワーク 大岩山砦
日 時 2014年4月20日(日)9:30〜12:30
場 所 長浜市余呉町下余呉1938 はごろも市
交 通 JR北陸本線「余呉駅」下車 徒歩5分
内 容 織豊系陣城 大岩山砦の遺構を詳細解説
講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏
定 員 20名(要申込)
参加費 500円 奥びわ湖観光協会余呉支部主催
大岩山陣城見学会へ
坂虎口
「青嵐大岩山」と刻まれた石碑と
「中川清秀の墓」という案内板。
岩崎山砦から整備された山道を進み、途中林道に合流して少しで、大岩山砦に着く。
大岩山砦の現地説明板。
①坂虎口 城の入口の前の坂道を坂虎口という 一説に中川は坂の途中で戦死したとある ②二の丸の土塁 ③横矢
大岩山砦の歴史
・天正11年(1583年)茨木城主 中川清秀が余呉湖東の大岩山に設置。
・同年4月20~21日 柴田軍の佐久間盛政が行市山砦を出陣し、西浅井町集福寺~権現坂~余呉湖畔~尾野呂浜を経由し、大岩山を急襲。
・まだ、堅固な守備体制が整っていなかった大岩山砦、盛政方の兵8000に対し、大岩山の中川方は1000足らず。岩崎山の高山重友、賤ケ岳の桑山重晴に援軍を求めるもかなわず。
・味方はことごとく討ち死にし、中川清秀は雑兵に討たれるくらいならと、本丸で自害?。享年42歳。
・落城の直前、清秀の弟、中川淵之助が「我こそは中川瀬兵衛清秀」と身代わりになって果てて、清秀の首は敵方に渡らず。
・下余呉の村人が、清秀の遺骸を本丸南の谷に移し、柴と木の葉をかけて隠し、7昼夜守った。
・大岩山の南200mほどの尾根道を東に少し下った谷に、清秀の首を洗ったといわれる「首洗い池」がある。
所在地:伊香郡余呉町下余呉 map:http://yahoo.jp/qZEAdW
築 城:天正11年(1583)3月~ 廃 城:天正11年(1583年)4月
初城主:高山右近
区 分:山城(陣城)
遺 構:曲輪・土塁・外堀・慰霊碑(墓碑)
標 高:280m 比高差150m
城 域 : -
訪城日:2014.4.20
曲輪の奥には中川清秀主従の供養塔がある。これは百回忌の天和2年(1682年)豊後岡城4代城主中川久恒(清秀の5代嫡孫)がその霊を供養せんと祖宗主従の眠るこの地に建立した。
曲輪には周囲に低い土塁が一部残っている。曲輪は南北20m、東西40mほど。
墓碑の奥の虎口に石積が(当時のものかは不明と?)
墓碑はキリシタン大名の十字架の鉄扉
裏側に廻ると南無阿弥陀仏の墓碑
近世に設置の仕切り。左がⅡの郭・右は一壇高く主郭
参加者の記念撮影後、全員でアーメン!
イカリソウがひっそりと!
大岩山砦は賤ヶ岳から東に延びる尾根の先端に築かれ、東には高山右近が布陣した、岩崎山砦と隣接している。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、講師:長谷川博美氏の現地説明・見学会レジュメ
本日も訪問、ありがとうございました