城郭探訪

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観音寺城

2012年06月16日 | 戦国山城

観音寺城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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観音寺城
滋賀県
食い違い虎口跡
食い違い虎口跡
通称 佐々木城
城郭構造 山城
天守構造 なし(屋形二階)
築城主 六角氏頼
築城年 応仁・文明年間(1467年- 1487年)
主な改修者 佐々木六角氏
主な城主 佐々木六角氏
廃城年 永禄11年(1568年)
遺構 本丸、二の丸、曲輪、土塁、石垣、堀、門跡等多数
指定文化財 国の史跡
再建造物 なし
位置 北緯35度8分43.6秒
東経136度9分46.55秒

観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町にあった山城である。

支城に和田山城、佐生城、箕作城などがある。国の史跡に指定されている。

概要

佐々木氏の家紋(目結紋「平四つ目」)

近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。

標高432.9メートル、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。

天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

歴史・沿革

正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

応仁の乱

室町時代の応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦い

第一次観音寺城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:応仁2年(1468年)4月1日
場所:観音寺城一帯
結果:京極持清・京極勝秀連合軍の勝利
交戦勢力
京極持清軍
京極勝秀軍
六角高頼軍
指揮官
京極勝秀 伊庭行隆
戦力
不明 不明
損害
不明 観音寺城は開城
 

細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

観音寺城の模型/滋賀県立安土城考古博物館所蔵

 

第二次観音寺城の戦い

第二次観音寺城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:応仁2年(1468年)11月8日
場所:観音寺城一帯
結果:六角政堯・京極持清連合軍の勝利
交戦勢力
六角政堯軍
京極持清軍
六角高頼軍
指揮官
六角政堯
京極持清
山内政綱
戦力
不明 不明
損害
不明 観音寺城は開城
 

応仁2年11月初め、陣代山内政綱がようやく京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守り切ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。

繖山

 

第三次観音寺城の戦い

第三次観音寺城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:文明元年(1469年)5月
場所:観音寺城一帯
結果:六角高頼軍の勝利
交戦勢力
六角高頼軍 六角政堯軍
京極持清軍
指揮官

六角高頼、山内政綱
伊庭貞隆、伊庭行隆

多賀高忠
六角政堯
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
 

東軍の細川勝元は8代将軍足利義政を擁して官軍となった。この権威を利用して文明元年(1469年)5月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。守護に任命しただけではなく、持清に従わない者は知行地を没収する特権も持った。

これに激怒した高頼とその被官は焼失した観音寺城を修築、3度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になった。攻囲軍は猛攻であったが高頼軍も防備し、三度目の正直、ついに京極軍を撃退することに成功する。

その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚の親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は2度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。

その後の観音寺城の戦闘年表

和暦西暦主な出来事
文亀2年 1502年 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。
その後和議を結ぶ。
永正13年 1516年 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。
大永5年 1525年 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。
この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。

廃城

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。

永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。

現代

平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(52番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

  • 日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
    • 石寺楽市会館
    • 観音正寺

構造

現在のような観音寺城になるまで幾度かの改修が実施されたことが、文献や発掘調査などから明らかになっている。

観音寺城改修の歴史
回数年代主な特徴
築城当時 建武2年(1335年) 観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった。
第1次改修 応仁・文明年間
(1467年 - 1487年)
城郭らしきものが推定されるが遺構等は検出されていない。
第2次改修 大永5年(1525年) 城といえる城郭が完成していたと推定されている。
第3次改修 天文元年(1532年) 12代将軍足利義晴を迎えるため大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が
誕生していたと推定されている。
第4次改修 天文19年(1550年)前後 鉄砲の出現により、山城に石垣を作り、今日に見られる城構えが完成していたことが
発掘調査から確認されている。

観音寺城は現在、正確な曲輪の数はわからないが1000箇所以上の曲輪があり、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城であったと見られている。山城の特徴として、居住に便利なように山麓に居館を設け、山上付近に戦闘、防備施設があるのが一般的だが、観音寺城は山麓全体に分譲地、もしくは団地のような居住性の高い曲輪が配されている点が他の山城とは大きく異なる。

これは六角氏の政治的立場と関係が深いと考えられている。もともとこの地域は自立意識の高い国人衆が多く、彼らと連合政権のような政治を実施していくために、城郭も広い屋敷をもつ曲輪が必要であったと思われている。

昭和57年の繖山カラー空中写真

このため規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも、権威づけ、政治色の強い城ではあったため、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と言われている。

六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた。

これに対して『戦国の堅城』では、一定の防備が整っていたのではないかとしている。観音寺城の攻め口は、南側と北側になる。南側、つまり楽市や六角氏の居館があった方向から攻め上ろうとすると、そこには強固な石垣がある平井丸、池田丸があり、また山裾の平地部分に部隊を展開しようとすると、観音寺城の支城、箕作城、長光寺城があり挟撃される可能性がある。また北側、安土山(現在の安土城)の方向になると、曲輪はないものの尾根沿いに切岸と巨大な土塁をもって防衛ラインを形成したと考えられている。つまり山の尾根そのものを土塁としていたのではないかと『戦国の堅城』は指摘している。

この後、山城も大きく進化していき、一線防備でなく曲輪の配置や形状に工夫が見られて拠点防備になっていくが、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている。

本丸

標高は395m、面積は約2000m²、主な遺構としては、礎石、暗渠排水、溜枡(ためます)、幅4mの大手石階段などがある。またここには「二階御殿」と言われた施設があったのではないかと思われている。

平井丸

平井丸は、標高375mで面積は約1700m²、平井氏の居館があったのではないかと思われている。観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。その中で特徴的なのが、高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡があり、2m以上の石も使用されている。また南側には幅80cm、高さ1.3mの潜り門もある。また北東には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見された。

池田丸

池田丸跡

池田丸は標高365m、面積は約2700m²で、最南端に位置し、本丸にある御屋形へ通じる城戸口になっている。またこの曲輪は南曲輪と北曲輪にわけられ、周囲は土塀をめぐらし、南面には庭園をもつ主殿や溜枡等が発掘されている。

淡路丸

観音寺城の東の端に一郭独立したような形で、府施氏の居館淡路丸の曲輪跡があり、丁度観音寺城の鬼門の方向に当たるとされている。

大きさは、東西43m×南北50mの規模があり、周囲には土塁、東西、南側には土塁の内、外側に石垣を築いている。この曲輪は、南西、西の中間、北東の3ヵ所の虎口を設けている。また南外側では、道路を挟んで上下斜面に腰曲輪跡が残っているが、この淡路丸に付随したものと考えられている。

曲輪を土塁で囲む、構築法がシンプルであるなど、府施氏の城であった府施山城、大森城と類似点が多いのもこの曲輪の特徴である。

佐々木古城跡繖山観音山画図

その他曲輪

その他曲輪として数多く存在する。

  • 伊藤丸
  • 沢田丸
  • 馬渕丸
  • 三井丸
  • 馬場丸
  • 大見付丸
  • 三国丸
  • 伊庭丸
  • 進藤丸
  • 後藤丸
  • 観音寺

このように曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されている。これは、六角定頼の時代に家臣団、国人衆を観音寺城へ居住させ、文献上では初めて「城割」を実施したためではないかと推定されている。

繖山山頂からの眺望

後方が安土山
天満宮の参道
六角氏の御館跡

六角氏の御館

観音正寺への巡礼参道である赤坂道の参道入り口を右におれ、突き当りの石段を上がると六角氏の御館跡がある。ここも3方向を土塁と切岸で囲まれた「上御用屋敷」という地名の場所があり、南東には高く積まれた石垣が残されている。

繖山の山麓にあり石寺城下町付近になる。

石寺楽市の案内看板
石寺楽市の推定地

石寺楽市 [編集]

現在の近江八幡市安土町石寺に、石寺楽市が開かれていた。楽市とは、非課税等を通じて自由な売買を可能にした市のことである。石寺楽市は日本国内での文献上の初見で城下町に築かれたとされている。この地域は下御用屋敷、犬の馬場、馬場道、講口といった、城下町をうかがわせる地名が伝えられている。

これに対して『日本城郭大系』では、近江八幡市安土町石寺以外に、もう1カ所、楽市があったのではないかと指摘している。この石寺の地域には多くの武家屋敷もあり、ここに楽市も混在していたとすれば、規模が小さいとしている。また石寺楽市の古文献には「保内町」という記載が見受けられ、石寺にはない。石寺の隣になる近江八幡市安土町東老蘇には「保内町」という地名が伝わる場所があり、この周辺には3千軒も家が建ち並んでいたと伝承されている。これらのことにより、当初石寺に築かれていた楽市は、後に東老蘇にも新市として増設されたのではないかと指摘している。

この石寺楽市は、近隣にある安土城の楽市にも影響を与えることになる。

この石寺には楽市以外にも犬追物馬上跡があり、ここで佐々木流馬術を伝授していたと思われている。また犬追物絵図が現存しており、本丸にあった屋形二階に飾られていたものの写しであると伝わっている。

犬追物図/本丸の屋形に飾られていた絵図の写しと伝承されている

観光ボランティアガイド 現地研修会20120612

2012年06月12日 | 観光ボランティアガイド

東近江大凧・世界大凧会館

2012年東近江大凧(世界大凧会館にて)

http://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201205280001/

大紙鳶(おおいか) 

江戸時代の後期にはすでに100畳敷きの凧が揚がっていたといわれる八日市大凧。凧は揚げられたあと燃やすという秘密主義であったため、市内に残る版画や絵が八日市大凧を知る上で貴重な資料となっています。
  昔の大紙鳶(おおいか)が描かれた版画や絵28点を一堂に展示し、より多くの方に八日市大凧の輝かしい歴史の証明をご覧いただくとともに、まだ市内に存在するかもしれない新たな八日市大凧の資料発見に期待を込めて開催されます。

1874年「160畳敷 時のに叶う」 沖野ケ原大いかの図

金念寺

 金念寺に、江州音頭発祥の桜川一門の顕著碑

 ・墓

野々宮神社

中野神社 

  三生の樹

御代参街道御代参街道道標(親玉本店向かい)

 

薬師寺境内の不動明王

水掛不動(薬師寺の門横)

 ヴォーリス建築(旧住井歯科)

) 

田中うどん(乾麺製造)・・・ヴォーリス建築(旧住井歯科)の向かい

 

 

清水川奉行高札と清水川(元湧水・・・現在ポンプアップ)

 

 

 

 

一宮神社

額田王の立像(昭和天皇在位60年=1985年京都の復元師に」より彩色された)(400年前の市場まつりで山車飾られていた立像=彩色前の写真)

大海人皇子から、天智天皇に側室に蔵替えしてから歌(市宮神社)

市宮神社の社務所には、氏子や信者から奉納された『恵比須様・大黒様』

市宮神社の聖徳大子像道

 

 

太子ホールの聖徳太子童像

本日の歩数 7.062歩 1時間11分 4.9km
消費カロリー 311.5kcal 脂肪消費量 44.5g

近江小脇城主三井新三郎安隆の名がみえ、小脇城は佐々木氏の家臣三井氏の居城

2012年06月11日 | 戦国山城

 ≪ 近江の三井氏の系図 ≫ □「豪商三井家の系譜」の文中より引用。

 「佐々木南北諸士帳」に、近江小脇城主三井新三郎安隆の名がみえ、小脇城は佐々木氏の家臣三井氏の居城とされ、三井氏は佐々木氏の流れを汲むといわれている。応永二三年(1416)には守護の六角満高の元で近江守護代を務めている。

「三井系図」には、御堂関白藤原道長の子の長家から系を始め「藤原長家-忠家-基忠-信忠-信生-信政-信俊-定文-信文-信堯-信良」と続き、信堯が入部した近江国滋賀郡三井郷の地名に因み「三井氏」を名乗った。三井信良の五世孫にあたる出羽守乗定の女婿に、佐々木六角本宗の大膳大夫満綱(満高の子)の子の六郎・備中守高久が入り、その子が三井出羽守実忠、その子が上記新三郎安隆とされる。それ以後、「藤原姓」を改め「宇多源氏佐々木姓」を称する。
 また、備中守高久は愛智郡鯰江城を築いて鯰江とも号し、その子が同地に居して鯰江左近将監高昌といった。三井氏の一族は越中や三河に分かれたと伝えている。この一族から「三井財閥」を築いた「三井高俊」が出ている。(三井系図)

 三河の三井氏は、出羽守乗定の弟の「九郎左衛門尉乗春」が三河国宝飯郡八幡村(現:豊川市八幡町)に住み、その子氏春-光時と続き、その孫「左衛門尉光忠」が家康に仕え、その孫「左衛門尉光正」が大坂の陣に参陣し、以後紀州家に属したらしい。


家康最大の危機 「神君伊賀越え」

2012年06月10日 | 番外編
家康最大の危機 「神君伊賀越え」
 
 
織田信長が本能寺に消えた天正十年六月二日のこと。上方に遊んでいた徳川家康は変の報を受け、「伊賀越え」と呼ばれる生涯最大とも言える危機に直面する事は有名です。ここでは家康が通過したと思われる地の写真画像を交えてその足取りを追っていきますが、このルートには諸説あり、現在も特定されてはいません。従って、以下の内容はあくまでも管理人の私見としてご覧下さい。
神君伊賀越えマップ
 

「伊賀越え」とは

 天正十年六月二日早暁、京都本能寺に宿泊していた織田信長は、その重臣明智光秀に襲われ四十九年の人生を終えた(本能寺の変)。これに先立って上方を遊覧していた徳川家康は、この日信長への御礼言上のため堺の松井友閑屋敷を発って京都へ向かっていたが、河内飯盛山付近でこの変報に接した(場所には異説あり)。

 この時点で家康に同行していた面々は、軍勢もなく平服ではあったが、酒井忠次、石川数正、本多正信、本多忠勝、榊原康政、井伊万千代(直政)、天野康景、大久保忠佐・忠隣、高力清長、服部半蔵、渡辺半蔵、鳥居忠政、長田伝八郎(永井直勝)等という、徳川ファンが見れば垂涎ものの錚々たるメンバーであった(異説あり)。これに、信長から案内役として付けられた長谷川秀一(竹丸)、家康に従ったばかりの駿河江尻城主穴山梅雪、京都から急ぎ変報を届けてきた茶屋四郎次郎清延がいた。

 家康は報せを聞き驚愕、やがて「弔い合戦をしたくてもこの人数、土民の槍に掛かって果てるよりは京都知恩院に入ってそこで腹を切ろう」と一旦は死を決意するが、本多忠勝が一人反対して「信長公への報恩は、何としてでも本国へ戻り、軍勢を催して明智を誅伐すること」と力説、家康はじめ一同もこれに同意したと伝えられている。

 さて帰還についての相談となったのだが、一丸となって行動するかと思いきや、穴山梅雪主従十二名は別行動を取った。そこで家康は梅雪に別れを告げ、一路三河へと急ぎに急いだのだが、この家康の三河までの苦難の道中のことを世に「神君伊賀越え」と呼ぶ。なお、梅雪は家康一行の後で木津川にさしかかったが、草内渡し付近で土民の襲撃を受け落命することになる。

 それでは、家康一行が梅雪らと別れてから三河へ至るまでの道筋を一つのコースとして設定し、現地の風景写真などを織り交ぜてご紹介していこうと思う。スタート地点は河内飯盛山西麓である。


箕作城(箕作山城)    近江国(五個荘)

2012年06月10日 | 平山城

観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。

支城の箕作城が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に大きな影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえる。たった一夜で箕作城が落城すると、観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びた。

箕作城祉へは、清水鼻,山本,伊野部地区の3カ所の登り口があります。

 伊野部ルート。建部神社(標高125m)から、清水山の箕作城祉までは標高差200m。

主郭下の石垣。三角点324.7m

清水山の 山頂の新鉄塔の西側下に石垣残ります、しかしながら観音寺城攻めの前哨戦で織田氏と六角氏の両軍が激戦をしたという史実を思わせる城の規模には感じません。

縄張り図(滋賀県中世城郭分布調査より)

自動代替テキストはありません。

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新鉄塔の西下に石垣・土塁 新鉄塔を真下から  土塁や石垣を「史跡保護ヨシ」

   保護のため、虎ロープで囲って重機や機材から「史跡保護ヨシ」。

箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

観音寺城の支城。六角定頼が天文十九年(1550年)に築城しましたが、永禄11年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました。

  箕作城の石碑
箕作城跡より北東尾根を下り第2鉄塔付近に箕作城の石碑。石碑には 大正11年9月 滋賀懸保勝会

探訪 箕作城祉 20120610

 

 箕作(みつくり)城の戦い

  箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。そこで秀吉は蜂須賀正勝の夜襲案を採用することにした。

1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、いわゆる火攻めを行うというものだった。それと同時に秀吉隊も手に松明をかざして一斉攻撃を展開したために城兵たちも防ぎきれず、2百余人の犠牲者を出して退散してしまったのである。

この箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。翌日になって義賢父子が逃亡したことがわかると六角氏重臣の平井定武・後藤高治らもことごとく信長に降った。

最後まで抵抗の姿勢を示した日野城主の蒲生賢秀(氏郷の父)も、神戸友盛の説得によって降伏した。

観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。

9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった

戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。

木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。


比叡山焼き討ち(山岳戦の主役は山岳兵のような軽歩兵である。)

2012年06月05日 | 探訪「近江水の宝」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

足利義教が行った比叡山攻撃と延暦寺との抗争

もともと天台座主であった義教は還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。永享5年(1433年)に延暦寺山徒は幕府の山門奉行飯尾為種や、光聚院猷秀らに不正があったとして十二か条からなる弾劾訴訟を行った。満済や管領細川持之が融和策を唱えたため、義教は為種や猷秀を配流することで事件を収めた。

しかし山徒は勝訴の勢いにのり、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が起こる。義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲した。これをみて比叡山側は降伏し、一旦和睦が成立した。

しかし翌年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。義教はただちに近江の守護である京極持高・六角満綱に命じ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。さらに11月には軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなった。延暦寺側が降伏を申し入れ、管領細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行ったが、義教はなかなか承諾しなかった。12月10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を再三行った。12日、義教はようやく折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引いた。

しかし義教は本心では許しておらず、同7年(1435年)2月、先の4人を京に招いた。彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。しかし、管領の誓紙が差し出されたために4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。

炎は京都からも見え、世情は騒然となった。義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出した。その後、山門使節の後任には親幕派の僧侶が新たに任命され、半年後には根本中堂の再建が開始された。

武家との確執

初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した

永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。

これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。

なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。

 

 

 

 

細川政元によって、比叡山焼き討ち (1499年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、明応8年(1499年)7月11日に細川政元が行った比叡山延暦寺を焼き討ちした事件

明応の政変により細川政元によって将軍職を足利義澄(義高)に奪われた足利義稙(義尹)だが、なんとか京を脱出して越中に入ると、彼に味方していた河内・紀伊・越中守護畠山尚順の家臣である越中守護代神保長誠に迎えられた(越中公方)。そして加賀守護富樫泰高、越前守護朝倉貞景の支持をも受けると、その勢いで上洛の姿勢を見せた。それを見た延暦寺も義尹の支持に回ったため、細川政元は焦り、延暦寺と対立することとなる。

明応8年7月に入っても様子を伺っていた政元だったが、ついに内衆の赤沢朝経と波々伯部宗量に延暦寺を焼き討ちするように命じた。2人が率いる軍勢は11日に一斉に比叡山に攻め上り、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍をことごとく焼いた。近江に進軍していた義尹と河内で挙兵した畠山尚順も細川軍に打ち破られ、政元は包囲の危機を脱した。

 

 

 

 

 

織田信長の比叡山焼き討ち (1571年) 

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

後に織田信長も比叡山を焼き討ちにするが、その時には言うほど山上に建物は建っていなかった。赤沢と波々伯部の焼き討ちが徹底していたためである。

 開戦までの経緯

比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山領を横領した事実が指摘されている。永禄12年(1569年)に天台座主應胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。元亀元年6月28日(1570年7月30日)の姉川の戦いで勝利した織田信長であったが、同年8月26日野田城・福島城の戦いでは逆に浅井長政、朝倉義景連合軍に背後を突かれ、浅井長政、朝倉義景連合軍は比叡山に立てこもり比叡山の攻防戦(志賀の陣)となったが、正親町天皇の調停により和睦した。

浅井長政・朝倉義景連合軍に加え、近江南部・甲賀では六角義賢がゲリラ的に活動し、三好三人衆も摂津国・河内国を抑えて再び京奪還を狙っていた。更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津国・河内国・近江国・伊勢国、そして織田信長のお膝元でもある尾張国の門徒衆にも号令を発していた。

 信長は、まずは岐阜と京都の中間地点でもある近江国南部から平定する必要がありと考えたらしく、翌元亀2年(1571年)の正月の賀礼に岐阜城へ訪れた細川藤孝らに向かって、「今年こそ山門(比叡山)を滅ぼすべし」と決意を述べたと伝わっている。

元亀2年(1571年)1月2日、横山城の城主であった木下秀吉に命じて大坂から越前国に通じる海路、陸路を封鎖させた。石山本願寺と浅井長政・朝倉義景連合軍、六角義賢との連絡を遮断するのが目的であった。この時の命令書が残っている。

北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し。         —尋憲記

 信長は「尋問して不審な者は殺害せよ」と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、『尋憲記』には奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。

同年2月、孤立していた佐和山城が降伏し、城主の磯野員昌が立ち退いたため、信長は丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。5月には浅井長政軍が一向一揆と組んで、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉が堀を助けて奮戦し、一向一揆・浅井長政連合軍は敗退した。同5月、信長は伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払うと、8月18日には浅井長政の居城となっていた小谷城を攻め、9月1日に柴田勝家・佐久間信盛に命じ、六角義賢と近江国の一向一揆衆の拠点となっていた志村城、小川城を攻城した。志村城では670もの首級をあげ、ほぼ全滅に近かったと思われている。それを見て小川城の城兵は投降してきた。また金ヶ森城も攻城したがこちらは大きな戦闘も無く落城した。

9月11日、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いた。

戦いの状況

当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。

 

信長比叡山を焼く/絵本太閤記 二編巻六

元亀2年(1571年)9月12日、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に各所で法螺貝と鬨の声が上がり、攻め上がっていた。『信長公記』にはこの時の様子が

九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り

信長公記

と記されている。坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭もったようだが、ここも焼かれた。この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『言継卿記』には3,000-4,000名と記されている。

戦後の状況

 

信長は戦後処理を明智光秀に任せ、織田信長は翌13日午前九時頃に、精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。その後三宅・金森の戦いでは近江国の寺院を放火していく。延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領はことごとく没収され明智光秀、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀に配分した。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各与力らがこの地域に派遣し治める事になる。特に明智光秀と佐久間信盛はこの地域を中心に支配することになり、明智光秀は坂本城を築城することになる。

一方、延暦寺側では正覚院豪盛らがなんとか逃げ切ることが出来、甲斐国の武田信玄に庇護を求めた。武田信玄は彼らを保護し、延暦寺を復興しようと企てたが、元亀4年(1573年)に病死。実現をみるに至らなかった。

天正7年(1579年)6月の日吉大社の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長によって綸旨が押さえられ、再興の動きは停止されてしまった、とある。

その後本能寺の変で織田信長は倒れ、明智光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、簡単には許されなかった。山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に羽柴秀吉の心をつかんでいったと思われている。

そして小牧・長久手の戦いで出軍している羽柴秀吉に犬山城で、後重になる要請により天正12年(1584年)5月1日に、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に山門再興判物を発し、造営費用として青銅1万貫を寄進した。比叡山焼き討ちの約13年後のことであった。

延暦寺の発掘調査

昭和後期に大講堂の建替え工事や奥比叡ドライブウェイの工事に伴う発掘調査が断続的に行われ、比叡山焼き討ちに関する考古学的再検討が行われた。

考古学者である兼康保明の「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(『滋賀考古学論叢』第1集)によると、明確に織田信長の比叡山焼打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、他の場所でも焼土層が確認できるのが、この比叡山焼打ち以前に廃絶していたものが大半であったと指摘している。また遺物に関しても平安時代の遺物が顕著であるとしている。発掘調査地点は、比叡山の全山にわたって調査されたわけではなく東塔、西塔、横川と限定されているが、比叡山焼打ち時には、比叡山に所在していた堂舎の数は限定的で、坂本城の遺物に比較して16世紀の遺物は少ないことから、『多聞院日記』に記載されているように、僧侶の多くは坂本周辺に下っていた。従って『言継卿記』や『御湯殿の上の日記』に記載されている、寺社堂塔500余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女3000人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になり、9月15日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎるのではないかと指摘している。『信長の天下布武への道』では「殺戮は八王寺山を中心に行われたようである」としている。

兼康は、これまでとは視点を変えて「織田信長の人物像をはじめとする戦国時代の歴史観を再構築しなくてはならない時期が訪れつつある」と結論付けている。


国史跡 「北近江城館跡群」三田村氏館跡(三田町)

2012年06月03日 | 館跡

 

国史跡 「北近江城館跡群」三田村氏館跡(三田町)
1.歴史的概要
 当館跡の城主である三田村氏については、元京極氏の根本被官であり、江北を支配し近江守護となった京極高清に仕え、明応5年(1496)には浅井直種らとともに美濃斉藤利国の援軍として出兵『船田後記』するなど、各地を転戦して功を挙げている。
 その後、浅井氏の江北での勢力の拡大に対して、一族の中に反感を持つものが出て内紛を生じたようで、大永5年(1525)、六角定頼が江北に侵攻した際に一族が分裂し、浅井方についた三田村氏はその後、浅井氏の江北における治世の拡大とともにその中で重きを成して行ったとされている。
 三田村氏館跡の最後の城主である三田村左衛門は『嶋記録』によると今井定清と縁戚関係にあったとされ、『信長公記』によると元亀元年(1570)姉川の合戦の際には横山城の城守を務めていたとされるが、信長の進行により小谷城に撤退しており、姉川の合戦後は小谷城中ノ丸に篭もっていたが、天正元年8月(1573)小谷城落城の際に秀吉を通じて信長に降るも容れられず、一族とともに処刑されたと『総見記』は伝えており、この段階で三田村氏館跡は廃城になったと考えられている。
 なお、処刑された三田村氏一族を含む77名が、三田町内にある通称西三昧に葬られたと伝えられており、現在は当地に碑が建っている。
 姉川の合戦は、姉川を挟み、長浜市野村町付近で浅井長政軍と織田信長軍が対峙し、三田町付近で越前から援軍として駆けつけた朝倉景建軍と徳川家康軍が対峙し戦端が開かれたとされている。信長公記巻三には、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田の郷に移りと記されており、それぞれの軍の位置関係等から三田村氏館跡に朝倉景建軍の本陣が置かれたと考えられる。

土塁北辺から西辺(北西から)

2.遺構概要
主郭内部の確認調査から明らかになった点の内、特に重要であると考えられるのは、郭内部に基幹的な排水路であると考えられる溝が、土塁と並行してそれぞれ2条検出された点、および土塁の構築時期が2時期に分かれるという点である。
 まず、排水路と考えられる溝についてであるが、溝は、虎口部分で合流し虎口を通り堀へ向かって掘られていたと推測できる。また、溝内から出土した遺物の年代に幅があり、16世紀前半の遺物とともに17世紀以降の遺物も出土している。このことは16世紀前半から17世紀以降のある時期にいたるまで開渠であったと考えることができ、溝が郭内の基幹的な排水路であっため、埋没しないように十分に手入れがなされていたことが推測できる。
 今回検出されたような、郭内部に2条の溝を廻らせる事例は全国的に見ても非常に類例の少ないものである。
 次に、土塁についてであるが、古い段階に造られたと考えられる下層から出土した遺物についてみてみると、古いものは9世紀後半、最も新しいもので16世紀初頭のものが出土している。最も新しい年代を示す資料を下限として土塁の構築時期を推測すると、16世紀初頭以降の構築ということになる。
この時期は、三田村氏と深いかかわりを持つ京極氏が、上平寺(現米原市)に居館を構えたとされる永正2年(1505)から大永3年(1523)と合致するもので、京極氏との係わりの中で三田村氏館跡を構築したと推測することができる。次に新しい段階の土塁についてであるが、古いものは15世紀後半、新しいもので16世紀前葉以降のものが出土しており、土塁の構築時期は16世紀前葉以降であると考えられる。この時期は、江北において、京極氏から浅井氏の時代に移り変わる時期に当たり、三田村氏が浅井氏とともに活躍していた時期と合致する。以上のことから、三田村氏館跡の形成時期を推測すると、京極氏が上平寺に居館を構えた時期に、土塁(防御施設)を伴った館が構築され、その後浅井氏が江北で勢力を拡大して行く時期に、館も防御機能を高めるように土塁の改築がなされたと考えられる。

土塁断面
3.調査・保存の経緯
平成15年7月に開催された「中近世城郭遺跡検討会」において、北近江城館跡群 下坂氏館跡 三田村氏館跡(説明名称「湖北の平地居館群」)に関し、委員より「平地に所在する土塁囲いの城館の期限が、中世まで遡りうるものなのか発掘調査による検証が必要」との指摘を受けたため、三田村氏館跡については平成17年度より、土塁の構築年代、郭内の遺構の状況およびこの年代を把握することを目的として確認調査を実施した。
 調査の結果、前述のとおり、土塁囲いの城館の初現期は15世紀後半から16世紀初頭と考えられ、京極氏との関係が文献上押さえられる時期にあたる。土塁の改築年代および郭内の基幹的排水路の構築時期は16世紀前葉頃と考えられ、江北における政権が京極氏から浅井氏に移り、浅井氏との関係が強化された年代と符合することが確認された。
 また、既に史跡指定されている下坂氏館跡に関しては、下坂氏の系譜を伝える豊富な文献資料から、元京極氏に被官していたものが、政権の移行に伴い浅井氏に被官し、両氏の重臣として活躍したことが明らかであり、発掘調査の結果も、土塁囲いの館の構築時期が京極氏との関係を裏付ける時代のものであると推測されている。

 


探訪【近江水の宝】比叡山延暦寺を歩く

2012年06月03日 | 探訪「近江水の宝」

探訪「近江水の宝」比叡山延暦寺を歩く探訪延暦寺チラシ.pdf

★日時:平成24年6月2日(土)10:00~16:45頃
★集合・受付:【京阪】坂本駅9:30~10:00
★歩行距離:約5km(ただし山坂道)

根本中堂は(標高670m)―坂本(150m)=標高差520m。    (ちなみに大比叡は848.1m)

行程 比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)を比叡山延暦寺・西塔・東塔・叡山ケーブルで坂本へ

http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/ma07/20120427_1.html

探訪【近江水の宝】比叡山延暦寺を歩く

出発式で、県教育委員会文化財保護課 記念物担当木戸氏、北村氏の挨拶。 坂本の歴史を守る会、大津市のスタッフ紹介

    比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)を

日吉神社鳥居の横の石段を・・・いざ延暦寺へ!    花摘堂跡(伝教大師母君の遺跡)

坂本から比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)途中にあります。かって比叡山延暦寺は修行の地として神聖視され、女性の入山を認めませんでしたが、年に一度ここにあった社への参拝ができました。人々は、この地に花を捧げました。

  石仏群で小休止

薬師院跡で小休止戦国玉城のよう!石垣・土塁・縦堀・平削地の廓跡(寺社堂塔500余棟】

 法然堂に到着、約2時間 法然堂で【おせんべい】を、全員に頂戴しました。  坂本の歴史を守る会・文化財保護課より、班分け・スケジュールの説明。

 文殊楼は高い石段を隔て根本中堂の東側にあります。延暦寺の山門にあたり、徒歩で本坂を登ってくると、まずこの門を潜ることになります

根本中堂はその最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂となります。本尊は薬師如来です。

現在の姿は徳川家光公の命で寛永19年(1642)に竣工したものです。ご本尊の前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。

根本中堂の前に!

昭和39年(1964)に山麓坂本の讃仏堂を移築したものです。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祭られています。

青銅の灯篭に【三つ葉葵】の御紋 開運の鐘(連打禁止)

  菩提樹

戒壇院の創建は天長5年(828)、第1世義真座主が僧侶の大乗戒(規律)を受ける施設として建立したのが始まりと伝えられています。延宝6年(1678)に再建されたもので桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、栩葺、裳階付、軒唐破風、和様と唐様が混在した形式を持ち、床は石畳で石造の戒壇が設けられ内陣には得戒和尚釈迦牟尼仏と文殊菩薩像、弥勒菩薩像が安置されています。戒壇院は江戸時代初期に建てられた寺院建築の遺構として大変貴重な存在で明治34年に国指定重要文化財に指定されています。

水琴窟またお堂の前には、水琴窟があり、美しい響きを聞くことができます。

昭和12年(1937)に建立された、壇信徒の先祖回向の道場です。本尊は丈六の阿弥陀如来です。

法華総持院東塔

昭和55年に阿弥陀堂の横に再興されました。伝教大師最澄は日本全国に6か所の宝塔を建て、日本を護る計画をされましたが、その中心の役割をするのがこの東塔になります。本尊は大日如来をはじめとする五智如来が祀られており、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されています。

伝教大師の御廟がある浄土院は、弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した場所です。 東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になります。

現在の釈迦堂は、延暦寺に現存する建築中最古のもので、もとは三井寺の園城寺の金堂でしたが、秀吉が文禄四年(1596年)に西塔に移築したものとなります。

 その後、比叡山鉄道坂本ケーブル山上駅(標高650m)から、坂本駅(150m)へ。

乗車時間はわずか11分の長旅でした。

 

 

 

参考に。

比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、坂本・大津の町並を一望できます。

 

比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、

この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。

最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。

最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。

最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。

特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。

美しい自然環境の中で、1200百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。

昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-」が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しております。

 

 

 

本日の歩数 22,318歩 3時間56分 15.6km
消費カロリー 473.4kcal 脂肪消費量 67.3g
登り2:00・・・ちょっと、疲れました。

万葉浪漫紀行

2012年06月02日 | 番外編
万葉浪漫紀行
額田王と大海人皇子のロマンス
さて、蒲生郡一帯の肥沃な平野は総じて蒲生野と呼ばれ、古くから人々に親しまれ愛されてきました。
この蒲生野を舞台にした“妹背”の物語や歌が数多く伝わっています。
仲でも有名はのは額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)との相聞歌ではないでしょうか。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田王)
紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも (大海人皇子)
大海人皇子と額田王の像これは六六八年五月五日、天智天皇ら一行が、蒲生野へ薬草狩りにでかけたとき、二人が酒宴の席で交わした歌です。
「あなたが人妻の私にそんなに袖を振って、野の番人はみとがめないでしょうか」という額田王に対して、「美しいあなたのことをもし憎かったならば、人妻なのにどうして私が恋しく思うものか」と皇子は返しています。
こんな歌を大勢の前で詠み合うなんて、ちょっと考えられないような気がしますが、古代の恋はおおらかだったのでしょう。
大人同士の親しみと愛の語らいは一同から喝采を浴びました。
この歌には、座興的にうたい交わしたらしい口調の中に、かつて心を通わせ合った男女の愛が感じられる気がします。だからこそこれほど長い間人々に謳われてきたのではないでしょうか。
龍王寺(雪野寺)
(りゅうおうじ)(ゆきのでら)
龍王寺(雪野寺)
奈良時代の初め・和銅3年(710年)に僧の行基によって「雪野寺」として開創され、平安時代に「龍王寺」と改められた天台宗のお寺です。毎年旧暦8月15日(中秋)に行われる喘息封じの加持祈祷は有名で、全国から大勢の人たちが訪れ賑わいます。
梵鐘 へちま加持祈祷
 龍王寺ホームページ
梵鐘 重要文化財(川守・龍王寺)
(ぼんしょう)
上帯・下帯に文様の鋳出がなく、乳は五列四段で簡素につくり、懸垂装置の竜頭は二頭の竜首がたてがみを立てています。
銘記はありませんが、奈良時代に鋳造されたと推定されています。
また、小野時兼という侍と大蛇の姿になった美しい女性の“妹背”にまつわる悲しい説話が残っています。
大蛇の姿絵 (川守・龍王寺)
大蛇の姿絵
龍王寺の梵鐘に残る悲しい伝説
雪野山の山麓にある龍王寺の梵鐘には、妹背にまつわる悲しい伝説が残っています。
小野時兼(おののときかね)という侍のもとへ、有る日、美しい女性が妻にしてくれと現れます。
二人はとても幸せに暮らしていましたが、その三年後「私は平木(八日市)の沢の主です。あなたに恋い焦がれてここまでやってきましたが、やはり帰らなくてはなりません。私に会いたければ百日後に平木の池に来て下さい」と言い、形見に玉手箱を渡して姿を消してしまいます。
時兼(ときかね)は寂しさに耐えかねて九十九日目に会いに行くと、妻は大きな蛇の姿になって現れました。彼が驚いて家に帰り、玉手箱を開けると、そこから大きな鐘が出てきました。時兼はこの鐘を龍王寺に寄進したということです。この鐘にまつわる歌は数多く、代表的なものとして
暮れにきと 告ぐるぞ待たで 降りはるる 雪野の寺の 入相いの鐘 和泉式部
鐘暗き 野寺の松の 木陰より 山ほととぎす 声ど落ちくる 柿本人麻呂
昨日観し 花のあたりに 夜は更けて 野寺の鐘の 声ぞ聞こゆる 藤原定家
女郎花(おみなえし)
妻への愛を女郎花(おみなえし)に託して
また大江匡房(おおえのまさふさ)の歌で
蒲生野の しめのの原の 女郎花 野寺に見するも いもが袖なり
と、妻に対する思いを歌ったものもあります。
おだやかな気候と風土が息づく蒲生野は、人の心に愛を育んだり、呼び起こしたりする不思議な力を持っているのかもしれません。

http://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/area/history.html


関が原の戦いで内助の功。

2012年06月01日 | 番外編

良妻賢母を称える際に必ず名を挙げられる女性で、織田信長の馬揃に出る為へ「そくり10両」を一豊に差し出し一豊はその駿馬を手に入れ馬揃に出て、信長の歓心をかったというhttp://www.youtube.com/watch?v=N9IzUJ9tG6khttp://www.gokuh.jp/ghp/busho/fem_025.htm

書状を一豊のもとへと届けさせた。届けたのが田中孫作であった。

山内一豊の妻・千代 四十四歳

 関が原の戦いで内助の功。

時は慶長五年(1600年)、天下分け目の関が原。その直前まで、各大名たちは、豊臣方につくか、徳川方につくかで迷っていた。山内一豊は、その時家康に従って関東にあった。

 ちょうどその頃、大坂で一豊の留守を守っていた千代のもとに、豊臣側に従うようにという書状が届いた。彼女は、その書状をすぐに一豊のもとへと届けさせた。

「必ずや家康公に忠義を尽くしますように。私のことは、ご心配なきよう。いざというときには、自害する覚悟でおりますので」
しかも、大坂方の書状は、決して封を切らず、そのまま家康公に差し出すようにと書いた密書まで添えられていたのだ。

 

一豊は、千代のその機敏な行動に感謝して、書状を家康に差し出す。その功により、一豊は、土佐二十四万石の城主となることができるのである。内助の功として、後の世にまで語りつがれた一豊の妻千代、四十四歳の頃のエピソードである。