城郭探訪

yamaziro

疋壇城(疋田城)    越前国(敦賀)

2016年03月25日 | 平山城

 

お城のデータ

所在地:敦賀市疋田  map:http://yahoo.jp/cBE5G0

別 名:疋田城
築城期:室町期・・・文明年間(1469~1487)

改築期:織豊期
築城者:疋壇対馬守久保

改築者:柴田勝家?織田信長?

区 分:平山城
遺 構:空掘・土塁・石垣・天守台(櫓台)
城 域:130m×300m
標 高:90m    比高差:20m
 福井県県指定史跡

目標地:西徳寺・疋壇城の案内ポール

駐車場:疋壇城の案内ポール横

訪城日:2016.3.23

お城の概要

国道8号線から疋田の集落に旧道に疋壇城の案内ポール建っている(ここに駐車)、集落とJRの線路の間一帯が疋壇城の城域。
 車で本丸下の登ることが出来るが。この空地は小学校の跡地で、小学校が建設されたことで疋壇城の約1/3に遺構が失われているが、小学校跡地から北側一帯には良好に遺構が残されている。

 この地は柳ヶ瀬越,塩津越,海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたものと思われる。

元小学校跡の空地から比高差5~6mの高台が本丸櫓台で、広さは10m四方。中央部に疋壇城址の石碑が建てられている。櫓台から北側に曲輪が広がるが、大部分は畑地として利用されている。
 この曲輪の西側に空掘が残り、空掘は北側では曲輪とも見える大堀切と繋がっている。堀切の北側には更に曲輪が続き、北麓の日吉神社まで遺構は広がっている。

 

お城の歴史

 疋田は、西近江路と東近江路が合流する交通・軍事上の要地であり、恵美押勝の乱でも有名な古代三関の一つ愛発(あらち)関の有力此定地でもある。
 疋壇城は文明年間(室町時代1469~1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保に築かせた城であり柳ケ瀬越え,塩津越え,海津越えの主要近江路が集まる要衝の地に、越前最南端の要衝を守る重要な拠点であった。 疋壇久保は西福寺宛て安堵状が残るので実在が確認されている。
現在も畑地の中のあちこちに石垣が残る。(福井県指定史跡)

 歴史的には、天正元年(1573)の織田信長により越前攻めの後、疋壇城は破却されたとされるが、疋壇城のあちこちに残る石垣や堀の土止めの石積み等は朝倉氏の城では見ることは出来ず、朝倉氏のものでない。

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の沓掛周辺に構築された諸砦の存在。

 

 朝倉氏を滅ぼした後の織田方による改修も考えられるが、朝倉始末記によれば、「元亀元年、信長によって平定された越前は、天正3年には“一揆持ちの国”となり、信長は天正3年8月に約5万の軍勢を仕立て、徳川軍1万3千、柴田勝家軍1万2千の他、合わせて約10万の軍勢で越前攻めを行う」とある。
 当時これだけの大軍を仕立てることの出来た信長が、わざわざ一向一揆衆を相手に疋壇城を改修するとは考え難く、残る可能性としては賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家によって改修されたことが考えられる。

 天正10年、清須会議後、湖北三郡と長浜城を手に入れた柴田勝家は、江越国境に玄蕃尾城を築き、玄蕃尾城と北庄城のほぼ中間地点にあり、交通の要衝の地にある疋壇城を対秀吉戦に向けて改修か?。

 (現在疋壇城の中核部東西に残る横堀も、玄蕃尾城に残る空掘と規模的にも同程度で、櫓台を主曲輪の隅の置く思想も玄蕃尾城と同じで、そんなところにも柴田勝家による改修か?。)

 信長軍の撤収後にいったんは修復されたらしく朝倉の臣・栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが、天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃により城主・疋壇六郎は討ち死にし、城は完全に破却された。

 

信長公記 巻三 元亀元年(1570) 金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

 信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城①を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

ところが四月二六日、突然浅井長政が離反したため、信長は敦賀を脱出し京都を経て岐阜に帰還した。
 この後、朝倉氏は当城を修築し、栂野三郎右衛門尉景仇・藤田八郎左衛門尉の諸将も置き防備を固めた。-----

巻六 元亀四年(1574)刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事

-----この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。----敵勢は、中野河内口と刀根山口の二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
----討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興や印牧弥六左衛門など多数に及んだ。

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。----

  その後姉川の戦いを挟んで、天正元年八月十三日朝倉義景は刀禰坂戦いで大敗し兵力の大半を失う。朝倉軍は、織田軍の追撃にあいながら一旦この疋田城に篭るも、一四日早朝よりの猛攻に支えきれず落城し、朝倉氏の滅亡を招いた。この時 疋壇氏の将兵五百余人を始め朝倉軍三千余人が討死したとされる。---

 甫庵太閤記巻第六丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表(愛発・疋田)に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に ・・・云々

ここに駐車。

天守台へ

南側の空堀

広場かた天守台

北側の空堀

大手道か?桝形虎口か?

 

虎口から天守台

北側の空堀

大手道?を集落へ 

旧道街道沿い

菩提寺へ 宗昌寺:福井県敦賀市奥野23-11

正面の林の中に疋田氏の墓

参考資料:越前若狭歴史回廊、信長公記、甫庵太閤記

   本日の訪問ありがとうございす!!


沓掛南砦 近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月25日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町沓掛(旧西浅井郡西浅井町沓掛)

区 分:山城

築城期:室町期   

改築期:織豊期(天正11年期の賎ヶ合戦)

築城者:熊谷氏   

改築者:丹羽五郎左衛門尉長秀

城 主:熊谷下野守直房

陣 主:丹羽五郎左衛門尉秀長

標 高:176.5m 比高差:40m

遺 構:櫓台、堀切、土橋、

目標地:集福寺バス停

駐車場:集福寺バス停の横空き地

訪城日:2016.3.23

お城の概要

下沓掛バス停を過ぎた左手側に八幡神社が鎮座している。その一つ南東側の細尾根上が城跡。

獣除けの柵で、城山に入れない。集福寺若山城から大川沿いに登城、帰りの獣除けの柵、大川沿いを集福寺若山城へ

日計山の北東斜面の端部で南から北方向に伸びる細尾根上に約100mの細長い削平地が二段設けられている。

下段の先端は、南奥を片堀切とし、東側が土橋になっており、先端部は約30m四方の北面に櫓台を備えた独立性の強い郭となっている。

塩津海道の監視を意識した砦である。城域の南端は、日計山に向け斜度がきつくなる所で堀切を設け、遮断している。

獣除けの柵で、城山に入れない

お城の歴史

弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

また、甫庵太閤記巻第六:丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に ・・・云々

塩津海津に七千騎もの、雑兵を入れるのは、塩津街道(塩津浜~沓掛)沿いには、この砦しか無い!

 

集福寺若山城から大川沿いに沓掛南砦へ

上の城域

国道8号線へ

帰りの獣除けの柵、大川沿いを集福寺若山城へ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 

 本日の訪問ありがとうございす!!


沓掛(くつかけ)西砦(集福寺北城)  近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月24日 | 
主郭

お城のデータ

別 称:集福寺北城

所在地 : 長浜市(旧・伊香郡)西浅井町沓掛 map:http://yahoo.jp/c96eDh

  遺跡ウォーカーの比定地:map:http://yahoo.jp/15bxhW

こちらの比定地(沓掛バス停の西山頂)は、後日確認することする。

現 状:山林

区 分:砦

築城年:

築城期:

標 高:230m 比高差:93m

遺 構:土塁・堀切・竪掘

目標地:八幡神社

駐車場:八幡神社の集落側に下りた所の空き地

訪城日:2015.12.12

南東尾根の土塁

お城の概要

 沓掛集落の西側は、大川が南流し、並行して国道8号が走り、その国道より西には山地がせまっている。

沓掛西砦は、国道8同線沿い山裾の八幡神社に向け、南から北方向に張り出した尾根の先端部に築かれている。

自然の鞍部を活かし堀切で尾根続きを遮断し、城内側に土塁を伴った南北約30m×東西約20mの主郭を構えている。

主郭から南東に伸びる支尾根には、細長い三段の削平地が続き、上二段の北面には土塁が築かれている。
なお、堀切の城外側も細長い削平地が見られる。

西山から北東方向にに張出した尾根先に構築されてあり、南に向かって太い土塁となって続くが、その土塁と城砦の主要あたりで、堀切によって分断されている。この堀切による分断は天正期の賤々岳の合戦の時の作業ではないだろうか。

 

お城の歴史

 著書『賤嶽史蹟伝説』に於いて、「天正期の賤ヶ岳合戦の時、羽柴藤吉郎秀吉方の「沓掛山砦・明石与四郎則實五百人」とあるのが、この砦に該当するのではと推測されている。

沓掛集落には2つ(西砦と北砦)の城砦がある。西砦はその集落から見て西の砦となる。

城歴の詳細不明

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

案 内

国道8号の沓掛バス停の左手側に八幡神社の背後の丘陵上が城跡。神社の背後の谷筋登り、尾根の国道方面に戻る。

本殿の裏から

沓掛西城概要図(登城した歩行痕) 

ここから城跡

戻り道

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、

 本日の訪問ありがとうございす!!


沓掛北砦 近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月24日 | 

大川の橋上

駐車場スペース  登城路(関電鉄塔管理道)

水源山地整備事業碑

自然の谷川がⅤに、また木橋。その比先は比高2mの段差

お城のデータ

所在地 : 長浜市(旧伊香郡)西浅井町沓掛 map:http://yahoo.jp/PGhj0y

現 状:山林・山頂

区 分:砦

築城期:ー

築城者:ー

遺  構 :廓・土塁・箱堀(水田・足入り)、土橋、堀切、

標 高:358m 比高差:190m

目標地:八幡神社の北へ約400m

駐車場:国道8号線添い空地

訪城日:2016.3.23

お城の概要

 尾根先の標高358mの頂部から南東方向に並行して二本の支尾根が伸びている。この頂部と支尾根が城域。
頂部が北郭で北東端を堀切で遮断し、北西と南西側は谷へ落ちる急斜面で、南東側は箱堀で主郭と隔てられている。

 主郭は27m×18mの削平台状地と南側の腰郭から成り、その周囲は箱堀で、北東側と南東側は足入り状の箱堀。主郭南西側の箱堀を介した支尾根も削平。
砦は、自然地形を利用した堅固な防備を固めた縄張りだが、こんな奥まった山頂から、街道監視の役割(街道が見えたのか?)か疑問。

しかし仮説だが、登城路の途中に削平地が多数残る・・ここなら監視も可能だが?。山頂部は詰め城か?頂部は狼煙台か?

また、滋賀県中世城郭分布調査の沓掛北砦の説明には「敦賀と塩津浜間の街道を挟んで、沓掛北砦(城)との対面の西の山中にには、街道を東西の高地から監視する「殿山の遺構」があるようだが、風化激しくブッシュが酷く踏査・測量は困難のようだ。」

お城の歴史

築城期・築城者や詳細は不明

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

北の廓(狼煙台・物見櫓か?)

 

北廓の東の箱掘主郭の土塁土塁主郭土塁sy

主郭部手前の桝方状の登城道、曲がると北廓の鉄塔が見える、その東側上部が主郭土塁 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 本日の訪問ありがとうございす!!


集福寺若山城 近江国(西浅井)

2016年03月24日 | 居城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)西浅井町集落寺 map:http://yahoo.jp/M-GwEg

現 状:山林

築城年:室町期

築城者:熊谷氏

区 分:山城&山麓館 ”殿谷形縄張り”

標 高:167m

遺  構:土塁、堀切、竪堀、掘切、曲郭、石積

城 域:

目標地:集福寺バス停

駐車場:集福寺バス停の横空き地

訪城日:2015.12.12・2016.3.23

お城の概要

集福寺若山城跡は、集福寺バス停の西側を南北に流れる大川(前堀に)を越した、日計山の東の舌状丘陵とその山麓に所在するが、大川がこのあたりで東に湾曲して流れ、丁度この城地の東・南・北の三方を囲う天然の堀壕をなし、大川(前堀に)の流れに添って東側に塩津街道(国道8号線)が通る。

 ”殿谷形縄張り”(丘陵に挟まれて館があり、その背後丘陵が城になっている)をなしており、県下及び関東一円に見られる特有な地名であり、関東は武蔵・熊谷から当地塩津に地頭として来任の熊谷氏の関わりの城館であるが故と言えるであろう。

 城域には5箇所の低い山地がそれぞれ砦を成しており、いずれもピークが削平され腰郭を2重3重に配したている。丘陵間は谷か堀切で遮断する程度の防禦を成している。 通路の隅や、本丸の虎口に石積や石段と思われる遺構が残っている。

 

お城の歴史

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。 参考に、本丸は規模、縄張り共に「壷笠山城」(大津市坂本・穴太)と酷似している。

大川の鉄橋を渡り右へ

Ⅾ遺構へ

Ⅽ遺構へ

B遺構へ

A遺構へ

Ⅾ遺構から国道8号線へ

集福寺バス停・・・目標地・駐車場位置(2015.12.12)

2016.3.23再訪E遺構へ 

B遺構とÈ遺構の間の「山麓館 ”殿谷形(殿屋形)”」

 

F遺構へ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

  本日の訪問ありがとうございす!!


小沢城 近江国(長浜)

2016年03月22日 | 居館

小沢城比定地 (遺跡ウォーカー、小沢城)

お城のデータ

所在地:長浜市小沢町城田/古屋 map:http://yahoo.jp/FlZNCk

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:

遺 構:

目標地:

駐車場:路上駐車場

訪城日:2016.3.20

お城の概要

 小沢城遺跡第9次調査(小沢町) 小沢城遺跡は中世の城館跡。

今回の調査は個人住宅造成工事に伴う試掘調査で、小沢城遺跡の 調査としては9回目となります。

お城の歴史 


小沢(こざわ)町  室町時代

 室町時代にできた町名。村の由来は沢には湿地、小川などの意味がある。小沢から中沢にかけて旧姉川の流路といわれる小川がある。また中沢の東南には湧水もあり湿地になっている。このことが沢のおこり。八坂神社、真宗大谷派の憶念寺がある。

小沢城(小沢町) 小沢城遺跡は中世の城館だが、詳細不明。

【遺跡ウォーカー】の小沢城の比定地・・畑地

隣の下之郷集落

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、(財)県協会編『ほ場整備報告』XV-1(県協会1988.10)

 本日の訪問ありがとうございす!!


室町居立城  近江国(長浜)

2016年03月22日 | 居城

お城のデータ

所在地:長浜市室町149 map:http://yahoo.jp/qngBEuこの地図のURL

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:井関氏・・・井関治郎左門尉昌武

遺構:土塁・堀痕(用水路)

目標地:長浜室郵便局・・・のすぐ裏(西側)仏厳寺

駐車場:仏厳寺前駐車場

訪城日:2016.1.10.2016.3.20

お城の概要

遺構は、室町集落の西端に元八条村にあった北条盛時建立と伝わる仏厳寺(ぶつごんじ)にあり、本堂裏に土塁と思われる土盛りがあったと伝わる。

また、同寺南西の小字城居立の南端にも35m程の長さで林が続き土塁の可能性があるとされ、内側は湿地で堀の一部との見方がある。その東は南居立、その東が下司目と称する小字で屋敷跡と推定されている。
しかし、土塁跡とされる所は、細長い竹林や林ではあるが、平坦地で土塁の痕跡は見当たらない。

お城の歴史

室町城居立城は、築城年代や築城者など詳細であるが、室町時代は室町幕府直轄地であった。相模の住人井関一族は移り住んだ。

仏厳寺(ぶつごんじ)・・・後鳥羽上皇とともにこの地に来た北条盛時が佛厳寺を建立した。付近には焼門(やきもん・やけもん)といわれる場所もあり、石塔もあったという。現在、室町にある佛厳寺はここから移動したと言われている。

 長浜市七条町の氏神である「足柄神社」社傳や由緒によれば、相模の国の住民 井関治郎左門尉昌武が建歴2年(1211年)に当地に居を定め、建長三年(1251年)に足柄山箱根権現を勧請し創建したのがはじまりであるといわれている。 この時代、七条村は北条氏直轄地で、井関一族はこの地を治めるため、幕府より派遣されてきたものであろうといわれている。(京都までの中継地のひとつとして)

七条町の足柄神社は、建長三年(1251)に創建されたとの社伝を有する古社で、その昔、相模の国の住人井関氏が七条の地を訪れたときに、足柄山箱根権現を勧請したのがその始まりであると伝えられています。この井関家は、江戸時代には天下一の能面打ちと称えられた家柄ですが、彼らが面打ちの技法を体得し、これを家職としはじめたころに住居したのが、坂田北郡の七条であったのです。

 文永年間(1264年~75年)には北条氏の一族である北条盛時が住み社殿などを整備し別当になったという。市の指定無形民族文化財である春祭りは江戸時代までは4月8日であったが、明治維新以後は5月8日に改められ、後に5月5日となった。

 この祭りの中で特筆すべきものはジョウトンバ(尉と老)と呼ばれる面姿の者たちであろう。 七条町は室町時代に活躍した能面の面打師近江井関氏の本拠として知られた土地柄で、春祭りに用いられていた井関の能面二面(市指定有形文化財)が伝えられている。

 

滋賀県教育委員会および長浜市教育委員会によって調査
広瀬氏館跡は中世の館跡とされる遺跡、発掘調査の記録はなく配置などは不明。

室町城居立城は中世の城跡とされる遺跡。発掘調査の記録はなく配置などは不明。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、長浜市史(足柄神社の由諸)、遺跡ウォーカー、 長浜市埋蔵文化財調査資料第140集 室遺跡第72次調査報告書 

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


広瀬氏館 近江国(長浜)

2016年03月22日 | 居館

本殿背後の土塁神社の北側の堀痕

お城のデータ

所在地:長浜市室町  map:http://yahoo.jp/YF2fCH

現 状:神社・公園・広場・竹藪

区 分:居館

築城期:鎌倉期

築城者:広瀬氏

遺 構:土塁痕?堀痕?

目標地:日枝神社

駐車場:日枝神社横に駐車場可

訪城日:2016.3.20

お城の概要

室町の北端に位置し、大辰巳村の日枝神社と併合された日枝神社の西隣にあって、現在は室町の自治公園になっている地を広瀬兵庫介の屋敷と伝える。公園の北側には数本の溝跡が残っている竹薮があり、公園は土盛りしてあって屋敷跡について詳しくは分からない。

広瀬氏館は、室地区ある日枝神社から西隣の自治公園一帯にかけて築かれていた方形単郭の居館。

公園造成時に、館の遺構などは消滅したか?。神社本殿の裏に土塁痕?公園の北の竹藪内に土塁痕、日枝神社の北側に堀痕の水路。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』に、「坂田郡 室 住 佐々木浅井隋兵 広瀬兵庫」の名を記す。広瀬氏館は、築城年代は定かでないが広瀬氏によって築かれた。

 広瀬氏は元来岐阜の広瀬村出身で、天正10年の本能寺の変後、明智光秀の襲来に備えて広瀬兵庫介は「長浜城にいた羽柴秀吉の女房たちを美濃へ避難させた」と言い、その功績として伊吹町甲津原・浅井町高山・木之本町杉野の地で500石を宛がわれている。また、同族らしき者に文禄元年秀吉の馬廻衆として肥前名護屋城に駐屯した広瀬加兵衛がいる。

長浜城博物館より

4.関ヶ原合戦図絵巻

  

1.羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 広瀬兵庫助宛

 天正10年6月19日付天正10年(1582)6月2日、本能寺の変がおこり、織田信長は自刃する。当時、秀吉は、信長の中国攻めの司令官として備中高松城攻略の最中であったが、本拠の長浜城内には秀吉の母「なか」と妻「おね」ら秀吉の家族が居住していた。
 信長自刃の凶報は翌日には長浜城にも届き、おね、なか、そして木下家定(おねの兄)らは難を逃れるため、長浜城を出て身を隠すことを計画する。この逃避行に際し、道中の警護を任されたのが、本書の宛名にある「広瀬兵庫助」である。広瀬家は代々美濃国の土豪で、兵庫助はその分家の飛騨国広瀬家の出身と伝わっている。なお、この人選は称名寺(長浜市尊勝寺町所在)の僧・性慶(せいきょう)の進言であったという。
 おね達一行は性慶とともに長浜城を出発し、東草野谷から曲谷・甲津原のルートをとり、新穂峠を越え美濃国広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町広瀬)にある兵庫助の館に匿われた。時を同じくして、明智光秀方の京極高次、阿閉貞大らが長浜城を占拠するが、6月13日の山崎合戦で秀吉が光秀を破ったことで降伏。秀吉は17日に帰城し、おね達も19日には無事帰城している。本書は、秀吉とその養子・秀勝(信長4男)が、秀吉家族を西美濃に逃した恩賞として、兵庫助に対し高山(長浜市高山町)・甲津原(米原市甲津原)・杉野(長浜市木之本町杉野)の地で、500石を宛行(あてが)った文書である。なお、同じくこの功績のあった性慶にも恩賞が与えられている。
【縦17.1㎝×横48.6㎝】

9.大坂夏の陣図

2.羽柴秀吉書状 広瀬兵庫助宛 天正11年11月12日付

天正11年(1583)4月、賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破り、信長の後継者の地位を確立した秀吉は、この戦いで功績のあった家臣に所領を与えた。本書は、「広瀬兵庫助」が広瀬(岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内広瀬)2ヶ村を秀吉が兵庫助に安堵した文書。

広瀬は、羽根・西・北の3ヶ村で構成されるので、この時兵庫助に与えられたのはこのうちの2ヶ村と考えられる。詳細は、美濃を本拠とする秀吉家臣である池田恒興・稲葉一鉄に伝達するとある。
【縦19.3㎝×横43.5㎝】

 ★詫びと削除【織田信長から拝領した(誤報)】⇒子孫の方より指摘で削除しました【広瀬兵庫助歴史館】http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【広瀬兵庫助伝】詳しくは、
http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515 http://cocologhonobono.cocolog-nifty.com/blog/ http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 などへ。


日枝神社

拝殿

本殿

本殿背後の鎮守の森日枝神社の北側の堀痕

自治公園ぼ北ぼ竹藪

竹藪の西の石仏公園から竹藪竹藪に土塁か? 公園の南東の竹・・遺構か?公園の北の竹藪

日枝神社東側に駐車

滋賀県教育委員会および長浜市教育委員会によって調査
広瀬氏館跡は中世の館跡とされる遺跡、発掘調査の記録はなく配置などは不明。

室町城居立城は中世の城跡とされる遺跡。発掘調査の記録はなく配置などは不明。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、長浜城博物館、【広瀬兵庫助歴史館】、遺跡ウォーカー、 長浜市埋蔵文化財調査資料第140集 室遺跡第72次調査報告書  

 本日の訪問ありがとうございす!!


速水城(西の宮館) 近江国(湖北町)

2016年03月21日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町速水  map:http://yahoo.jp/1W7tHj

別 称:西の宮館

現 状:神社

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:速水氏

遺 構:土塁・堀

標 高:98m 比高差:ー

目標地:伊豆神社

駐車場:伊豆神社前駐車場

訪城日:2016.3.20

お城の概要

速水は、近世には旧北國街道に沿った宿場町として栄えた。

速水城は、国道8号線沿いに高さ50㎝程の土手と竹藪がある。伊豆神社一帯に築かれていたという。 伊豆神社の旧社は集落の西で、圃場整備の済んだ田の中にあった。

お城の歴史

築城年代は定かではない。速水氏代々の居館で、六角氏、浅井氏に仕え羽柴秀吉に仕えた。秀吉に仕えて黄母衣衆の一人となった速水守久が著名である。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、浅井郡 速水 住 佐々木隋兵山本源氏 速水右馬介 速水冠者頼信ヲ元祖トス

                   速水 住 渡辺勘兵衛   同 渡辺甚介

                   速水 住 今井林右衛門       と記す。

築城年代は定かではない。速水氏代々の居館で、六角氏、浅井氏に仕え羽柴秀吉に仕えた。秀吉に仕えて黄母衣衆の一人となった速水守久が著名である。

『淡海木間攫』には、速水村

 「当所ニハ七十二門トテ名家七十二家アリシト云、速水氏ハ根本山本源氏ノ一族ナリ、佐々木六角ニ属シテ京極家ニ属セス、後江南ニ住ス、速水右馬介実枝・速水勘六左衛門ハ六角高頼・定頼二代応仁の乱甲賀ノ砌軍功アリ、其後秀吉公長浜在城ノ比仕官立身ナリ、速水甲斐守ト号シ処々ニ働アリ、記ニ出ス、速水右衛門尉景益ハ公方方ニ出ツ、息信益ハ義直将軍軍ニ仕官、長享二年廿八日討死スと云、今井氏ト云者土俗ニアリ、慶長五年九月一六日東照宮ヨリ御朱印ヲ頂戴セシ由、今猶所持セリ、右関ケ原御合戦ノ時石田治部少輔光成敗軍此処へ逃隠レシヲ、田中兵部今井ノ家ニ有ヲ捜シ求メタリト云、又渡部監物ト云武士当村ニアリ、京極家ノ物頭ナリ、秀吉公横山・長浜等に在城ノ砌、息助兵衛処々軍記ニ出タリ、珠更賤ヶ嶽ニテ名誉アリ、其後伊豆ノ国韮山ニテ大功アリト云、息勘兵衛大阪ノ陣ノ時藤堂高虎ノ手ニテ軍功アリ、二万五千石ヲ拝知セリト云、又藪田与左衛門在住セリト云、秀吉公長浜在城之頃出テ仕官ス、立身シテ後伊賀守と云、諸記ニ出タリ」、と記す。

速水氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

速水 守久

はじめ近江国浅井郡の土豪であり(速水城)、浅井氏に仕えた。滅亡後にお市の方の子お茶々らの家臣として主従、羽柴秀吉に仕え、近習組頭、黄母衣衆となる

小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに歴戦し、朝鮮出兵では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務めた。

平時には秀吉の身辺警護にも当たった。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増された。

秀吉死後も秀頼に仕え、七手組頭兼検地(越前)奉行として活躍。旗本部隊の中核を担った七手組の筆頭となる。

慶長19年(1614)、方向寺鐘銘問題が起こり、和平交渉に奔走した片桐且元が逆に内通を疑われるようになると、その調停に尽力する。結局且元は大阪城を退去させられ、その後も続いた豊臣家中の調停に努めた。

大阪冬の陣が始まると、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢相手に奮戦。同様に夏の陣では天王寺の戦いで真田信繁らと並んで藤堂高虎を蹴散らすなど活躍したものの、衆寡敵せず大阪城に退却した。

千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届けた。徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するものの聞き入れられることはなく、自害する秀頼の介錯(毛利勝永とする説も)を務め、殉死した。武将、大名。豊臣氏の家臣。幼名は勝太。通称少太夫。名は他に時久・種久・時之・種之など。甲斐守。祖父速水寛政。父速水時久、子に守治・宗久・保久・貞久。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『ウィキペディア(Wikipedia)』

  本日の訪問ありがとうございす!!


新庄寺城(神照寺陣所) 近江国(長浜)

2016年03月21日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:長浜市新庄寺町  map:http://yahoo.jp/vDDo-I

別 称:神照寺陣所

区分:城郭寺院

現状:神照寺

築城期:織豊期(城郭寺院化)

築城者:神照寺

遺 構:曲廓・土塁・空堀

目標地:神照寺

駐車場:神照寺の参拝者用無料駐車場を利用

訪城日:2016.3.20

お城の概要・・・萩の寺として有名な古刹がお城跡。

新庄寺城(神照寺:新庄寺町/神照町 )と神照寺城(田地:新庄中町小太郎 )とは、別で混同されているか?

 新庄寺城は、その名の通り神照寺が城郭化したものである。鎌倉期には足利尊氏と直義との対面が、また室町期には京極氏の陣所であったり、浅井氏に属し姉川の合戦時に信長によって焼き討ちにあうといった実に多くの戦火を見てきた寺院であった。

 寺の東側の稲荷神社・県営住宅も含めた長方形の曲輪であったと推定される。資料によれば、寺の南にある般若院から東の熊野神社境内を結ぶラインを内堀が巡らされ、その外側に更に外堀があったとか。

お城の歴史

 神照寺は、寛平七年(895)第五十九代宇多天皇様の勅命により、益信僧正(本覚大師)様が、初代の住職となり、七堂伽藍の具わった古刹を建立したのがおこりである。のち、兵火天災等の為、一衰一興する。
 花園天皇様の御代に、足利義政が、堂舎を修補し、中興開基の實雄僧正と共に寺門を興隆し、法流神照寺流を創始する。(寺運の隆盛、三百余坊の堂舎。寺門盛観を極める)
 観応二年(1352)九月下旬、足利尊氏公と実弟直義との和解の為、11月2日浅井郡錦織興福寺にて兄弟対面ののち、神照寺に仮泊して帰る。(このとき尊氏公が境内に萩を植えたと伝わる。)
 貞治年間 住僧菩提坊隆信本堂を再建企画。新造するが、天災にて焼失
 康暦二年(1381)隆信本堂を再建(京都嵯峨天龍寺より、本尊を迎える、入仏落慶は30年後(応永十七年二月五日)執行。
 大永三年(1523)京極氏の陣所となり兵火で山内が荒廃、焼失した。のちに、浅井氏が旧観通りに再建、天文年間(1533~1554)に浅井氏が中心となり正月三日に新年茶会を催していた。
 元亀元年(1570)姉川の戦いによる兵火で焼失した。
 天正元年(1573)小谷城の落城と共に兵火に遭い一時衰退した。
 天正十一年(1583)秀吉公が天下を統一すると、安堵状を頂き伽藍の大改修を行った。
 徳川の時代に朱印状を賜った。天阿上人が京都の愛染寺より住職となり、寺運の興隆に尽くした。(真言宗醍醐派)。
 明治時代中ごろ智山派に転派して今に至る。かつては神照寺流という雅楽の吹奏があり、毎年3月15日の涅槃会に吹奏されていた。

 秋には萩咲き乱れる「萩の寺」として有名。『神照寺案内板』より

 萩の寺で有名な神照寺は、

土塁西角の竹藪に残る土塁西から北へと土塁が残存駐車場から入った所に低土塁

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、遺跡ウォーカー

  本日の訪問ありがとうございす!!


大井城 近江国(虎姫)

2016年03月21日 | 平城


お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡虎姫町)大井町 map:http://yahoo.jp/5nFW0N

現 状:ケアセンター姉川

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:小野義教(大井兵庫頭)

城 主:大井兵庫頭(小野義教)・鈴木三右衛門

目標地:ケアセンター姉川

駐車場:城跡碑・説明板前に路上駐車

訪城日:2016.3.20

お城の概要

現在はケアセンター姉川の東側の道路に面して石碑と案内板が設置されている。

大井城は小字「竹之鼻」の辺りに築かれていた。この場所は「三右衛門屋敷」・「三右衛門淵」の名が残る。

 高樫三右エ門屋敷跡の30年ほど前まで、石垣を巡らした川や堀が残っていたが、整地され消失、屋敷の一角に石碑と説明板が設置されている。

大日孁貴(おおひるめむち)神社は、
古くは大井神社の境外社としての八幡社であったが、太政官布告によって大井村から分村するにあたり、八幡社は大井神社に合祀し、新たに大日孁貴神を勧請して氏神としました。本殿の四方には、逆立ちしたしゃちほこが神社を守っています。

 


お城の歴史
「近江佐々木南北諸氏帳」に「東浅井郡 大井 城主 佐々木隋兵 高橋越前守 同源左衛門 浅井隋兵 大井新左エ門 鈴木三左衛門」の記録が残る。

築城年代は定かではないが鎌倉期には大井城はあった。高橋備中守秀高の女が、犬上郡高宮城主高宮宗忠の室になった記録もも凝る残る。佐々木京極道誉の四男秀高が高橋氏と称したのは、高橋秀高の名称を継いだ。

小野義教が当地に住んで大井兵庫頭と名乗り居城とした。

浅井氏が台頭すると、大井氏は美濃国北方へ逃れて小野姓に復した。

その後、浅井氏の家臣鈴木三右衛門が城主となった。浅井長政の時、小谷城の支城である大井城は、戦いが始まってから真っ先に信長名攻め落とされた。

大井城最後の城主は岐阜県本巣郡北方の城主に着任したときに、その地に「大井神社」と大井と同じ聖観音を有する観音堂を建てたことが近年判明した。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

  本日の訪問ありがとうございす!!


吉御子(よしみこ)神社遺構 近江国(石部)

2016年03月19日 | 平山城

お城のデータ

所在地:滋賀県湖南市(旧甲賀郡石部)石部西一丁目  map:http://yahoo.jp/HliH-l

目 標:吉御子神社

区 分:山城

現 状:山林

標高:167m  比高差:37m

遺 構:土塁・土壇・堀

築城期:室町期

築城者:青木氏の詰め城か?

目標地:吉御子神社、石部茶屋、(旧東街道沿い)JR石部駅

駐車場:吉御子神社駐車場

訪城日:2016.1.31

お城の概要

吉御子神社遺構は、吉御子神社の背後の山上にある青木氏の詰め城と推測する。青木氏館から僅か300mの位置し、比高差:37mながら西背後は自然河川で要害。

石部三郷を支配していた青木四家の共有し、東海道の東側の物見や詰め城に活用していた。

お城の歴史

 吉御子神社は奈良時代後期、崇徳天皇の頃に開山された古社。茂った木々に囲まれた本殿は、1865年京都上賀茂神社から移築された江戸時代の建築物で、大正10年に国の重要文化財に指定されています。社宝の吉彦命坐像は藤原時代に作られたもので、厄除け、安産、交通安全の守護神とされています。

 真明寺は、当地の有力武士青木氏を外護者として、慶長二年(1597)に建立された。山号を青木山という。

 当寺の住職俊応が貞享二年(1685)に記した『古過去帳』には「一、真明寺者青木岩崎殿子息青木検校殿之持院也、干時慶長二丁酉年、開基沙門嶺誉蓮幸大徳、一、境内者青木岩崎殿之城跡也、東西二十六間、南北三十二間、歩数合二反七畝二十二歩」と出ている。『甲賀郡志』によれば、『西福寺記録』に慶長二丁酉年建立、大旦那青木検校、青木山真明寺」と出ているという。

 青木岩崎は石部三郷を支配していた青木四家のひとつである。永禄三年(1560)九月一日付の算用状には「青木岩崎左衛門尉」の名が見えている。青木検校の検校とは、彼の場合盲人の官職を指す称ではなく、寺務を監督する職掌としてのそれであり、蓮幸を開基として創設した持庵を旦那として管理していたので青木検校といわれたのであろう。ではその名をなんといったのであろうか

石部三郷 

五重三家の一家である青木氏が支配した石部三郷とは、石部・西寺・東寺の三郷をさす。この三郷については、石部三郷名主中と檜物下荘名主百姓中との用水相論があり、その解決のために、先述した甲賀郡中惣の調停がうかがえるのである。なお用水相論の詳細については、第三節に譲るが、ここでは郡中惣と石部三郷のかかわりについて、述べておきたい。

 郡中惣による裁定は、惣の性格を知る上でも重要な事柄である。なかでも石部三郷の仲裁裁定は、当地域の支配者である青木氏の手にようるものではなく、先述の柏木三家と呼ばれる山中・伴・美濃部の三氏によってなされている。一連の経緯は、『山中文書』に詳述されているが、要約すると次のようなことがうかがえる。

  郡中惣の山中・伴・美濃部三氏が檜物下荘名主百姓に宛てた文書などによると、永禄の初めごろから用水相論がなされていたが、同八年(1565)には、終結を迎えたようで、和解の成立が知られる。具体的には、裁定の結果として、条件や裁定が示されており、それが相当厳しいことから、一連の相論がいかに激しいものであったかを物語っている。例えば制裁の一方法に放火があげられており、名主は二階門もしくは、内門百姓は本人から年齢順に家三十軒と決定されている。家屋放火の制裁は当事者にとって、大きな財産を失うことに等しく、極めて厳しいものであったと思われる。さらにこの相論中に、岩根衆が討死したことが知られており、なおさら和解に向けて、石部三郷と檜物下荘の両者があゆみ寄らねばならなかったことがうかがえる。また、山中・伴・美濃部三氏の仲裁を認めたうえで、「八郷高野惣」も、この裁定に参与しているのである(『甲賀郡志』所収、山本文書永禄八年七月二日)。八郷高野惣の連名には、「身寄中・柑子袋衆・夏見衆・岩根衆」の名前がみられ、先に述べた岩根衆の討死の一件と合わせて、かなりの数の郡中惣の仲裁が必要であったことが知られるのである。

  ともあれ、以上みてきた用水相論は、当事者同士で解決できなかった難題に、郡中惣が仲裁した点において、いかに惣の自治が確立していたかを物語っている。また一方で、彼ら各惣が石部三郷・檜物下荘の在地に発言力を有する足がかりを作ったことも考えられる。なお石部三郷に限っては、当地を支配していた青木氏との関係については、残念ながら今ひとつよくわからないが、同氏にかかわる問題点については、次節に譲りたい。

伊勢路と城館 

伊勢路として利用された古代の東海道は、近江・伊賀・伊勢・大和を結ぶ重要な交通路であった。このため、たびたび戦乱の中に登場することになる。また、軍事上の拠点として多くの城館も築かれた。

 現在知られる甲賀郡の中世城館の位置をみると、野洲川と伊勢路を見おろす丘陵上に多くの城館が築かれている。特に杣川上流部に集中してみられ、(『滋賀県中世城郭分布調査1』)、奈良との結びつきが強かったものと思われる。

 石部平野の北の入り口にあたる甲賀郡と野洲郡の境界付近は野洲川が通る狭隘部をなしている。このためそこを通過する伊勢路を容易に封鎖することができるので、軍事上重要な位置にあった。応仁の乱の際、六角勢掃討の先鋒を務めた浦上則宗が東寺の長寿寺に在陣しているが、これも伊勢路や金勝寺に至る道、ひいては甲賀郡、栗太郡東部を容易に扼することのできる重要地点であったからである。

 また、石部の中世城館である、石部城、青木城および服部氏館すべては、中位段丘面に立地し、伊勢路を見おろす位置をしめている。

 これら中世城館の形態を推察させるものとして、永禄元年(1558)以降に石部三郷と檜物下庄が水論に及んだ際の「今度石部三郷と井水之儀付異見申條々」(『山中文書』)がある。この文書には二階門(外門)・内門などをもった砦や在家への放火に関する文言がみられる。当時この地方には二階門・内門などに囲まれた城館が点在していたとことが知られる。石部三城は、このような形態のものであったと思われる。


 吉川代官と家康の本陣

 戦乱の続いた中世であったが、ようやく豊臣秀吉の天下統一によって国内も安定してきた。石部宿の成立については、「吉御子神社由緒書」に元亀二年(1571)に町として成立したことが述べられているが、詳細は不明である。

 豊臣政権化では、天正十一年(1583)に石部は浅野長政領となった。天正十八年には徳川氏の支配となり、吉川半兵衛が代官として石部に屋敷を構えた。翌十九年に徳川家康は吉川邸の改造を命じ本陣とした。このことは、石部が重要な宿駅としての機能と甲賀郡の徳川支配の中心的役割の両者の性格をもっていたことを示していよう。

 徳川家康はたびたび石部に宿泊している。文禄元年(1592)二月十五日、同年七月二十三日、慶長五年(1600)六月十八日などが記録に残る。しかし、先の本陣は徳川氏専用のものであり、後世における参勤交代にみられる本陣とは性格を異にしていた。

 また、豊臣秀吉は、文禄三年正月、京より清州までの間に駅制を施行した。さらに慶長二年(1597)五月には、長野善光寺の仏がんを京都大仏に遷す時、石部・坂田・栗太の四郡に領地をもつ土豪であった。また、この時の役夫・伝馬は、近江では土山・石部・草津に課せられている。

 慶長六年(1601)家康は大久保長安、彦坂元正らに東海道を巡視させ、伝馬制度を定めた。この時、各宿に「伝馬定」が出され、ここに本格的な完成するに至った。この年石部では、一里塚の設置・同路の拡張・徳川氏専用の宿泊施設である「石部御殿」などが設けられたようである。徳川氏の甲賀郡における領地支配の拠点として、代官吉川半兵衛が屋敷を構えた石部は、徳川氏の庇護を受け、徐々に宿駅の機能をととのえ、1500年代後半には近世の石部宿の骨格をもつに至った。

遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、中世の石部

 本日の訪問ありがとうございす!!


下鈎城 近江国(栗東)

2016年03月19日 | 平城

お城のデータ

所在地:栗東市下鈎町甲 map:http://yahoo.jp/VwztlJ

現 状:宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:連台寺氏

目標地:称名寺

駐車場:下鈎甲自治会館

訪城日:2016.3.17

 

お城の概要

下鈎集落にあったとされる平城。 築城時期など、詳細不明。

『滋賀県中世城郭分布調査3(旧:野洲・栗太郡の城)』には、下鈎城「奥屋敷」「殿ノ後」の小字名が在存し「近江栗太郡志」には連台四寺氏の邸跡としている。、水路が鉤状に巡らされている。

お城の歴史
蓮台寺氏の邸宅であった。

『佐々木南北諸氏帳』に、「栗太郡 下鈎 住 元丹州武士 西沢喜重郎」の名を記す

下鈎と中山道
 慶長 5 年(1600)、関ヶ原の合戦で勝利を収めた徳川家康は、慶長 6 年(1601)に東海道、翌慶長7年(1602)には中山道の宿駅制度を定め、江戸日本橋を起点とした五街道の整備を進めた。
中山道の、江戸から武蔵国(埼玉県)上野国(群馬県)信濃国(長野県)美濃国(岐阜県)を通り近江国(滋賀県)草津で東海道と合流し、京都に至る 69 次、約 132 里(およそ 528km)であった。
東海道と中山道の 2 つの街道が通っていた栗東の村々は、草津、守山、石部の各宿の助郷にあてられていた。下鈎村は、草津宿の助郷とされ、草津宿で人馬が不足した場合にはこれらを提供する役割を担っていた。参勤交代や、朝鮮通信使の通過に際しては、国役金(臨時の税)が課
せられることもあり、村々にとっては非常に大きな負担となっていた。
幕末期の文久元年(1861)には、公武合体のため14代将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮の行列が、中山道を通って江戸へと向かった。総勢 2,000 人を越える大行列の道中に、幕府では万全の準備を期し、助郷の村々からも人足と費用が徴収された。和宮の行列は、数日かけて無事栗
東の村々を通過していった。

  

称名寺

称名寺:滋賀県栗東市下鈎386

真宗仏光寺派。延宝 4 年 (1676)僧実祐開基。本尊は阿 弥陀如来像。

  

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、下鈎の歴史、遺跡ウォーカー、さきろぐ

 
本日の訪問ありがとうございす!!