城郭探訪

yamaziro

野尻城 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 平城

お城のデータ

所在地:栗東市野尻町 map:http://yahoo.jp/FBwAXz

現 状:田地・宅地・集落

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:野尻氏

標高:99m 比高差:ーm

目標地:野尻自治会館

駐車場:野尻自治会館

訪城日:2016.3.17

お城の概要

旧栗太郡の多くの村々がそうであったように、野尻も、江戸時代以来の農村風景を留めてきましたが、野尻は、栗東市の北部に位置し、守山市と接しています。地名の由来は「一郷の野の下部に位せしより付せられし名なるべし」(『近江栗太郡志』)とされ、農業を生業とする集落でした。

野尻集落にあったとされる平城。 築城時期など、詳細は一切不明。

野尻自治会館および周辺の農地付近にあったと考えられるが、詳しい位置は不明。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗太郡 野尻 住 野尻豊吉」の名を記す

縄文時代の石器にさかのぼります。以後、弥生時代の拠点遺跡や古墳時代の豪族居館など、人間の生活を物語る遺物や遺構が確認されています。また、地区内には、鎌倉時代(13世紀)の神像を伝える日吉神社や、永禄2年(1559)開基の安楽寺があり、今日まで続く野尻の信仰の拠点となっています。

 江戸時代の野尻は石高438石余りの農村で、野尻村の人々は隣村の下鈎村や糠田井村に田地を所持し、耕作を行なっていました。

 野尻自治会には、江戸時代の人々が助け合い、連帯するために組織した講や、様々な慣行に関する文書が残されています。また、地区内を中ノ井川が流れる野尻の特色の1つは、生活に必要な水を確保するための池が地区内に複数あったことで、それらの池の中には、下流の綣や北中小路の田地の用水となっていたものもありました。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、さきろぐ

   本日の訪問ありがとうございす!!


伊勢落城 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 平城

伊勢落城 概要図・・・藤岡英礼氏作図(栗東市教育委員会)

お城のデータ

所在地:栗東市伊勢落 map:http://yahoo.jp/JxRUZb

現 状:寺院・宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:武村氏

目標地:真教寺

駐車場:真教寺駐車場

訪城日:2016.3.17

お城の概要

伊勢落集落は、旧東海道の石部宿の隣に位置し、伊勢落とは、伊勢大路が転訛したものと言われ、かつて条里制 が行われた際、栗太郡の基点一条一里はこの地から始まっている。 山沿いに鎮守する寿泉神社は明治以前十禅師社と称した。天暦7年(953)栗太郡の豪族で小槻大社を祖神とする小槻宿禰が勧請したと伝える。境内には、高さ125㎝の石幢(いしどう)がたっている。幢とは、「かざりはた」のことで、これを石でつくったため「石幢」と呼ばれている。塔身にはその六面に地蔵菩薩の立像が陽刻されており、当地における六地蔵信仰の様子を示している。

真教寺の背後の土塁・濠堀

 お城の歴史

浄土真宗本願寺派。永徳 2 年 (1490)僧淨願開基。享保 4 年 (1719)木仏安置、寺号公称許 可。

境内とその周辺には大きな 土塁や壕跡が残る

日光山(日向山?)山頂 を物見台とする本城で、中世武士武村氏の居城

 斎王郡行

 斎王郡行と伊勢勅使は、きわめて重要な行事であったため、文献に散見する。表3は、現在までに確認できるものを一覧にしたものである。斎王が甲賀郡を初めて通過した記録は、「阿須波新道」の開設と同時に斎王繁子が群行した時のものである。さらに『西宮記』によると、醍醐天皇が即位した2年後の昌泰二年(899)九月に斎王柔子が群行している。この時の旅程は、八日の夜に京都を出発し、九日「勢田」、十日「甲賀」、十一日「垂水」、十二日「鈴鹿」、十三日には「壱志」に至っている。 『延喜式』によれば、斎王群行は九月に行うのが恒例となっている。頓宮は、近江国府(瀬田)・甲賀・垂水・伊勢国鈴鹿・壱志の五ケ所であり、禊を六ケ所の界川、すなわち近江勢多川・甲賀川(野洲川)・伊勢鈴鹿川・下樋(雲出川)・小川(櫛田川)・多気川(宮川)で行なうこととなっている。この野洲川で行う禊は、野洲・栗太・甲賀三郡の境界に位置する伊勢落村付近であったと考えられる。

伊勢落村は『近江與地志略』によると、かって「伊勢大路村」と称していたとする。現在も野洲川の堤防に沿った田の中に斎宮跡の伝承地がある。文献的にも、『帥記』の承保元年(1074)、『中右記』の永久二年(1114)、『愚昧記』の治承元年(1177)などに野洲川の禊の関係する記事がみられる。

 伊勢落村は、伊勢路のなごりの場所であり、三郡の境界に接し、禊の地としてふさわしい地点であったものと思われる。

岩上神社

岩神あるいは石神ともいう。巨石や巨岩に神が宿るという古 代の自然信仰に由来する。

東海道に沿った細長い伊勢落の集落は、東西に二分され、西は岩上神社を氏神としています。大正時代の『近江栗太郡志』には、岩上神社は元は日向山山頂の岩の上に祀ら れていたが、室町時代の文明3年(1471)に兵火で焼失し、永正元年(1504)に現在の地に遷宮されたとあります。

また、『葉山村郷土誌』には、同社は遷座前、日向山の巨岩の上に祀られていたためにこの名がついたとあります。

江戸時代の『近江輿地志略』にも、日向山中の巨石が岩上社旧社地「鎮座石」の名で紹介されています。伝承ですが、岩上神社は素朴な岩神、巨石信仰に源を持つ社であったようだ。

伊勢落の千本松

伊勢落の東端、JR草津線の線路脇に大きな松と鳥居が立っている一枚の写真があります。

千本松(写真:栗東歴史民俗博物館)

この松は「伊勢落の千本松」と呼ばれた松で、さまざまな伝説が伝えられています。

寛永11年(1634年)のこと野洲川の堤防が決壊し、川上から一尺余りの松と三尺四方の大石が流れてきました。
伊勢落村の伝兵衛という人は「この松を植えて成長させれば村の栄えと私の極楽往生がかなえられる」と信じて松を育てたそうです。

またこの松は別名「御祓松(おはらいまつ)」とも呼ばれていました。伊勢斎宮の禊(みそぎ)の所であったとも伝えられているからです。

また一里塚や古墳であるともいわれたこともありましたが明らかではありません。

かつては老松の名で指定文化財にもなっていましたが残念ながら昭和55年に枯死してしまいま 現存していません。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市地域資源活用ビジョン資料

  本日の訪問ありがとうございす!!


大西城(大西館)   近江国(栗東)

2016年03月18日 | 文化財

お城のデータ

所在地:栗東市手原 map:http://yahoo.jp/UaQIvT

別 称:大西館

現 状:宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:大西氏

目標地:JR手原駅、真慶寺

駐車場:手原赤坂会館

訪城日:2016.3.17

お城の概要

大西氏代々の居城。 築城時期など、詳細不明。

JR手原駅の南西部に「大西市上右衛門屋敷」と伝わる土地があり、かつては堀や土塁の跡があったとされる。 現在は区画整理によって遺構は消滅している。

 三雲山 真慶寺 520-3047 滋賀県栗東市手原4-4-2 http://yahoo.jp/2dzuFe

浄土宗。本尊の阿弥陀如来像は 仏師、春日の作と伝える。地蔵 菩薩立像は弘法大師の作とい う。

寺伝では、もとは栗本寺と いう大きな寺であったと伝え る。中興の大西大和守再建


お城の歴史

大西大和守は、近江守護佐々木承禎に仕えた当地出身の武士。

城郭分布調査に、「『近江栗太郡志』は、手原駅西南に「大西市上右衛門屋敷」と伝える地があり、周囲の堀・土手が残存するとしている。薮地あったが、現在は区画整理により消滅。」 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市地域資源活用ビジョン、遺跡ウォーカー

 本日の訪問ありがとうございす!!


新善光寺館 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 城郭寺院

 お城のデータ

所在地:栗東市林(旧:栗太郡栗東町林) map:http://yahoo.jp/BmJ3VO

区 分:城郭寺院

現 状:寺院

標 高:210m 比高差:40m

遺構等:寺院、堀・庭園

築城期:鎌倉期

築城者:平宗定(高野左衛門尉宗定)

目標値:栗東市林の新善光寺

駐車場:新善光寺駐車

訪城日:2016.3.17

 

歴史…開基(鎌倉時代中期)

開基については、鎌倉時代の中期、平清盛の9長子小松内府重盛の末裔小松左衛門尉宗定が信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢で託宣を受けて、分身の阿弥陀如来の持ち帰り(造像したとも言われています)、建長5年(1253)、この地に一宇を建立して安置したのが始まりと言われています。

平家の落武者伝承

 一説には、小松宗定は平重盛の末裔で、名前を平宗定といい、当地に落ち延びた宗定は、高野左衛門尉と称し、平家一門追善のために開いたとも言われています。 また、新善光寺は、金勝寺別院の一つだったとされる多福寺が前身であったのではないかと推測されています。

 栗東には、その他にも平家の落武者伝承は残っていて、金勝寺で仏門に入り、修行を積んで山麓に御堂を建て、農業をしながら平家一門の菩提を弔ったという三因寺(栗東市井上)や出家して金勝寺で修行し、金勝山にある国見岩より故郷を偲んだとされる伝承などが残っています。

建長5年(1253) 平清盛の長子小松内府重盛の末裔小松左衛門尉宗定

 鎌倉中期、平家一門の菩提を弔うために、信濃の善光寺へ四十八度の参詣をして、願を成就して善光寺如来の分身を安置したことに始まる。

新善光寺略縁起 開山上人
 源平の乱(治承の内乱)の後、平清盛の長子、小松内府重盛の一族で、小松左衛門慰尉宗定という人が、この地にのがれ住み、当地の地名を取って、高野宗定と称された。宗定公は、平家一門の菩提をとむらうため、信濃善光寺へ48度の参詣を発願された。

夢定中の霊告(ゆめのおつげ)
 その後、宗定公は12年を経て、この願を成就されたが、その満願の未明の頃、信濃善光寺如来より、夢の中でおつげを賜り、「江州(滋賀県)一円の衆生済度(しゅじょうさいど)のため、我、(善光寺如来の御分身)を連れ帰れ」という霊告を得られた。宗定公はこの霊告(おつげ)を深く慶び、夢より覚めると御分身如来が、宗定公の眼前におたちになっていた。

御分身如来の請来
宗定公は深くよろこび御分身如来を頂き、現在のこの地に請来された。時に建長5年(1253年・鎌倉中期)1月13日のことである。宗定公の御影は、50年に一度の御開帳の秘仏として、御奉安している。

本田俊次候(ほんだとしつぐこう)
寛文元年(1661年)になると、膳所城主本多俊次候は、あらたかな善光寺如来に深く帰依(きえ)され、三間四面の本堂を寄進され、略縁起(りゃくえんぎ)を著され、奉納された。 その後、県下一円に当寺の名が広まり、多くの信者が集まる所となり、地方屈指の名刹となった。中でも、1月13日御判日(ごはんび)、春秋のおひがん、8月のおせがきは、多くの参詣者がおまいりされた。

有栖川宮家御帰依(ありすがわのみや ごきえ)
明治元年、有栖川宮殿下の三回忌に当たり、宮家より追善のため御尊牌(おいはい)が奉安された。この際、宮家から御幕と提灯(ちょうちん)の寄進と、各種証文を賜った。                     

枯山水庭園

 膳所藩主本多俊次が本堂を再建した時、回廊(西側)と庫裡(南側)に囲まれた枯山水庭園を一緒に作りました。

 庭の北側から東側にかけては、高さ1.6メートルほどの築山となっています。さらに北側には第二次世界大戦まで百畳敷きの客殿があったといわれ、この築山が本殿と客殿の境界の役目をしていたと思われます。

 また、近江富士として知られている三上山や菩提寺山などを借景した庭には、中央に大きな亀島を設けることで、その護岸には亀の手脚を表現する横石手法が見られ、巨大な亀が北上する動きが表現されています。

 参考資料:栗東市観光協会の新善光寺HP、史跡ウォーカー、栗東市地域資源活用ビジョン資料

  本日の訪問ありがとうございす!!


手原城 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:栗東市手原 map:http://yahoo.jp/Xy3SfG

別 称:大西館

現 状:社地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:馬淵広政・・・手原氏(里内氏・里中氏)

目標地:JR手原駅、里中稲荷神社

駐車場:手原赤坂会館

訪城日:2016.3.17

稲荷神社は手原の里内(里中)氏の「家運擁護之神」として始 まったが、文明 3 年(1471)から手原村の産土神として四月 の最初の午の日に祭礼を行うようになったという。

赤坂山記念碑
 抑 赤坂山六町七反余は 徳川中期より下柴下草採立入場として手原区が権利を有し 明治二十二年の頃 当時の現住民七十二名の共有山として区長管理の下に 玉梅社等の協力を得て その保安に努めて来たのである
 この間明治四十二年金勝山紛争のため全山を皆伐これが買戻金に充当 その後植栽を行い幸山佐瀬両河川の決潰時の用材又は潅漑用の諸施設の資材資源として区の財政に多大の寄与をなして来た。
 
 即ち茲に永く全区民の管理愛育せし赤坂山を永遠に記念し 区民の福利増進施設として 手原赤坂会館と命名之を建設する     昭和四十四年九月二十三日


手原稲荷神社がある。朱塗りの囲い木柵の前に

「明治天皇手原御小休所」と刻んだ石碑が建つ。
 (境内にも「明治天皇御聖蹟」の碑あり)
 その先が神社入口で、左脇に立派な由緒書きの石版(解説板)がある。

お城の歴史

稲荷神社由緒
 里中大明神 木造男神座像 室町時代


当社は栗東町手原に鎮座、稲倉魂神、素盞嗚尊、大市比売神を祭る。

寛元三年(1245)馬淵広政この地を領し勸請する。子孫手原氏と称し代々当社を崇敬、文明三年(1471)同族の里内爲経社殿を修し、神域を拡張、天文四年(1535)手原重政武運を祈り尊崇を深める。慶弔十七年(1612)宮城丹波守豊盛社殿を造営、貞享三年(1686)と享保八年(1723)に社殿の再建あり、明治二年改築、明治九年十月村社に列す、昭和六十一年修復工事を施行。

当社は里中稲荷大明神又笠松の宮とも称される。

 東海道名所記に「左の方に稲荷の祠在り、老松ありて傘の如しなり、笠松と言う」と記され、江戸時代は笠松が有名であった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市地域資源活用ビジョン、遺跡ウォーカー

  本日の訪問ありがとうございす!!

 


谷氏館(谷殿屋敷・友定城) 近江国(近江八幡)

2016年03月17日 | 館跡

谷殿屋敷阯の駒札案内板

別 名 :谷殿屋敷・友定城

所在地:近江八幡市武佐町 map:http://yahoo.jp/f-Osh7

築 城:長享元年(1487)

初城主:谷氏

区 分:居館

訪城日:2013.5.5

 旧中山道・武佐宿の北側に大きな冠木門が建てられ、武佐宿脇本陣の案内板が掲げられている。敷地内には武佐町会館が建っているが、この一帯が谷氏館である。

 谷氏館は1町四方(約100m四方)あったとされ、武佐町会館の裏手の新興住宅地には「御屋敷」という字名が残っている。
また、新興住宅の一画に「谷殿館跡」の案内板が建てられている

さんど沢(谷殿沢)付近

市場跡とされる武佐神社城跡を思わせる広済寺

武佐宿脇本陣跡武佐昔の町並み

 谷氏館は、長享元年(1487)近江源氏の佐々木一族が小脇館から金剛寺城に移った時に、佐々木家御家人の谷氏もこの地に移り、館を築造したものである。

 江戸期には、この地に奥村三郎左衛門が脇本陣として使用し、明治22年(1885)には武佐村役場となり、現在では武佐町会館が建てられている。

谷館は近江守護の佐々木氏に仕えた谷氏の居館であり、佐々木氏が長享元年(1487)に金剛寺城を築いて拠点を移したときに谷氏もそれに従って館を築いて移り住んだ。戦国時代に佐々木氏の後裔である六角氏が滅ぶと谷氏も没落したものと思われる。
 中山道に面した交通の便に優れた場所であり、江戸時代には谷館跡の一部が武佐宿の脇本陣として使用されている。武佐宿はまだ尾張清州城主だった頃の織田信長が上洛したときに美濃の斎藤義龍の放った刺客に襲われた地でもある。

 近江鉄道の武佐駅から旧中山道を東へ進むと道の左側に冠木門の建つ場所がある。ここが武佐宿脇本陣跡であり、当時の谷館の南端にあたる場所とされる。町会館の案内板に谷館のことが触れられており、会館の裏にある住宅街には館跡を示す標識も設置されている。住宅街と雑木林の境界にある溝が堀跡で、これ以外に遺構は見当たらない。

近江八幡の城マップ
近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館  香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(九里城) 金剛寺町  

参考資料:日本城郭大系、武佐宿脇本陣案内板・滋賀県中世城郭分布調査4

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


蓮台寺城 近江国(栗東)

2016年03月17日 | 平城

蓮台寺城

お城のデータ
所在地:栗東市(旧:栗太郡栗東町)下鈎 map:http://yahoo.jp/eemsoz
現 状:寺院跡
区 分:平城
築城期:室町期か?
築城者:蓮台寺氏
遺 構:連台寺跡石碑
目標地:なかよし福祉会
駐車場:なかよし福祉会駐車場利用(日吉神社向かい)
訪城日:2016.3.17
 

 蓮台寺の由緒

そもそも当寺は人皇第50代桓武天皇の御宇、延暦8年(789)に伝教大師が天照大神宮に詣で給う道中、今の草津市に宿泊なし給う砌、東方に紫雲たなびくを感見し給う。この地是れ有縁の勝境なり。忽ち一刀三礼薬師如来、日光月光に三尊を彫刻なし給う七仏の其の一也。七堂伽藍を建立し蓮台寺と号したまう。
 然るにその後、兵火の為、堂塔伽藍古器宝物残らず焼失すといえども、本尊薬師如来日光月光十二神将仁王尊像等は不思議なるかな残らせたまう。その後再度堂宇建立し現在におよべリ。

お城の概要

現在、城域には蓮台寺跡地の碑と日吉神社が建つ。周囲は自治会館や福祉施設になっており、遺構は不明。

南側は葉山川が流れ、集落と城館の防衛になったか、現在は都市化が進み、住宅街となり往時に遺構は、蓮台寺跡や日吉神社の残存のみ。

お城の歴史

『滋賀県中世城郭分布調査3(旧:野洲・栗太郡城)』には、「栗東町一覧リストに 蓮台寺城 下鈎 不明」と記す。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗田郡 下鈎住 元丹波武士 西沢喜重郎」の名を記す。

 下鈎集落にあったとされる平城で下鈎蓮台寺は、「六角討伐の際に城塞化」したものか?。

『長享・延徳の乱・・・室町時代後期の長享元年(1487)と延徳3年(1481)の2度に亘って室町時代が行った淡海守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。なお、1度目の出陣は近江国栗田郡鈎(まがり)「現:滋賀県栗東市)に在陣したため、別に鈎の陣とも称される。』

長享元年(1487年)、9代将軍・足利嘉尚は六角行高の征伐を決し、義尚が近江鈎に陣所を張ったが、陣中で死去した結果、六角討伐は中断となった。側近であった結城尚豊は近江を出奔し、行高は一時的に赦免されるに至った。

現在、城域には蓮台寺跡地の碑と日吉神社が建つ。周囲は自治会館や福祉施設になっており、遺構は不明。

   

 

福祉施設「なかよし福祉会」内に蓮台寺城

隣の日吉神社 蓮台寺の護法神として蓮台寺が 天台宗に転宗した頃に勧請され たらしい。  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3(旧:野洲・栗太郡の城)、栗東市地域資源活用ビジョン資料、さきろぐ(城郭レポート)

  本日の訪問ありがとうございす!!


菖蒲嶽城   近江国(彦根)

2016年03月14日 | 山城

菖蒲嶽山城見学会に参加しました!

見学した所

登城口の中山道の道標

  

お城のデータ

所在地:彦根市中山町 map:http://yahoo.jp/2Ehqjf

築城者:今井定清(尺夜叉)=六角方

築城期:天文13年(1544)か

初城主:今井定清

区 分:山城

遺 構:土塁、堀切、土橋、堅堀

訪城日:2014.5.10・2016.3.13

お城の概

南城http://yahoo.jp/c4-wTK

  南城は3つの曲輪を連ね、浅い堀切を介した曲輪はほとんど削平されておらず自然地形にちかい。幅25m、奥行き8mほどの2の曲輪へは堀切、土塁を経て入る。
主曲輪へは2mほどの高低差があり、広さは幅25m、奥行き40mで前面に櫓台を設け、北東隅の平入虎口を固めている。

北城:http://yahoo.jp/w3yFOv

お城の概要

北城は幅25m×奥行き40mほどの主曲輪と北側斜面に袖曲輪を配しているだけで、削平状態も良いとはいえず、南城と比較すると急造され、使用期間も短かったのではないだろうか。

 菖蒲岳城から北方には太尾山城、地頭山城を望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。
中山道の道標の後方の登り口から山に入り、入ってすぐ左手の尾根へ登っる。この道は鉄塔の管理用の道で、3つ目の鉄塔が尾根の鞍部。

3つ目の鉄塔からは東側に太尾山城・地頭山城が見え、西側にキドラ谷砦などが見る、眺望は良い。

  城郭遺構は、右手(東側)へ200mほど進むと頂部が南城で、小さい堀切を越え、すぐに多いめの堀切があり、両サイドが竪堀になっています。登るとL字に土塁がありさらに一段上が主郭です。

左手方向に尾根を200mほど下り進むと堀切があり、さらに進むと堀切・土橋、その上に郭がありますが、不明瞭な郭。遺構としては不明瞭な北城。

菖蒲嶽城は中山道が番場から摺峠針へ抜ける街道沿いにあり、眼下に街道を押さえる標高260m~290mの山上に築かれている。
中山道の摺峠針の東、中山町への分岐点付近から山中に入り、尾根筋を北へ登ると約20分ほどで尾根が分岐するピークに着く。
菖蒲嶽城は2つの城域で構成されており、東尾根先端に南城、北尾根に北城があり、この間約300m。

  南城は3つの曲輪を連ね、浅い堀切を介した3の曲輪はほとんど削平されておらず自然地形にちかい。幅25m、奥行き8mほどの2の曲輪へは堀切、土塁を経て入る。
 主曲輪へは2mほどの高低差があり、広さは幅25m、奥行き40mで前面に櫓台を設け、北東隅の平入虎口を固めている。

 北城は幅25m×奥行き40mほどの主曲輪と北側斜面に袖曲輪を配しているだけで、削平状態も良いとはいえず、急造されたか?

お城の歴史

天文13年(1544)に今井定清、六角方ろして築城『島記録』

 蒲嶽城から北方には太尾山城,地頭山城を望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。
菖蒲嶽城については嶋記録に以下の記述がある。

 ---- 以下、嶋記録 天文13年(1544)6月27日
 今井本領案堵望之事
  「去程に、今井本意之望有しか共、事ゆかさりしかハ、北境目取出の望をなしゝに、人質として二歳の若子井鳴か孫四郎観音寺へさし上、摺針山・菖蒲嶽取出ニして、鎌のは(鎌刃城)の通路をさゝゑしかハ、敵以之外いたみけるとかや」---ココマデ
  嶋記録は、京極氏の家臣団の中でも筆頭の地位を占める箕浦城を居城とする今井氏が、文明2年(1470)の京極氏の内訌(梅本公事)をから浅井氏が台頭するまでの間に六角定頼に内応した。

 嶋記録-----嶋記録  箕浦帰参之事
 「覚へ、吉田安芸守也、蒲生郡河守村之地頭也、彼村老共今二申ツタヘニハ、吉田安芸スリハリ菖蒲か嶽二居城ト申候也」
---ココマデ
  天文13年(1544)に観音寺城の六角定頼に人質を差し出した今井定清は、天文21年(1552)、六角定頼が没した後、浅井氏に再度従うことになるが、その間、菖蒲嶽城には六角氏家臣の吉田安芸守が在城していた。

                       

望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。
菖蒲嶽城については嶋記録に以下の記述がある。

     キドラ砦鉄塔から北太尾山城鉄塔の下で遺構の説名・・

南城遺構のへ

               

                

北城へ

  堀切・土橋

      堀切・土橋                

                                                                                    

中山集落へ下りました。

      磨針一里塚の碑

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、見学会資料

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


谷氏館 近江国(信楽)

2016年03月11日 | 居館

遺跡ウォーカーの比定地

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町長野小字裏白 map:http://yahoo.jp/DJKlGK

区 分:居館(丘陵城)

現 状:丘陵畑地・宅地

築城期:

築城者:谷氏

標 高:377m 比高差:-

遺 構:不明・・宅地開発で喪失か?

目標地:谷川の橋、山長陶器

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.2.8

お城の概要

比定地は、丘陵上を新規開拓された分譲住宅の南側に畑地が残る。

断定はできないが、畑地の南側は谷川が流れ、切岸状になっている。また、畑地の所有者は谷氏で末裔だろうか?

お城の歴史

甲賀市史 第七巻『甲賀の城』p477に谷氏館跡 長野小字裏白  長野集落の北西にあり。遺構なし・・・とある。

遺跡ウォーカーの

谷氏館 [ 詳細情報 ]
時代:中世細分不明
所在地:滋賀県甲賀市信楽町長野
緯度経度:34.883500, 136.046306

参考資料:甲賀市史 第七巻『甲賀の城』、遺跡ウォーカー

   本日の訪問ありがとうございす!!感謝!!


丁野館  近江国(湖北)

2016年03月11日 | 居館

浅井氏発祥の地 丁野へ

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/g5b9IW

現 状:宅地・畑地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:浅井氏

標高:104m 比高差:-

目標地:岡本神社・小谷丁野自治会館

駐車場:小谷丁野自治会館

訪城日:2016.3.11

 集落の中心にある小谷丁野町自治会館。

イメージ 8
イメージ 9学校跡に建っている。
お城の概要
浅井家産湯の池跡がある、「五反屋敷」といわれ、宗家浅井氏の屋敷があった所。隣りには岡本神社が鎮座。丁野は小谷城浅井氏の発祥の地。
集落には、岡本神社や観音堂の浅井氏の誕生地、産湯の井など碑・説明板、神社の由緒書きにも詳しく記されている。
 
丁野山城も永正十五年(1518年)に浅井備前守亮政によって築城とされます。天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もりましたが、織田勢に攻められ落城しました。 <現地案内板より>

 三条公綱お手植えの銀杏。

 三条公綱の屋敷地との伝承のある岡本神社の境内

 浅井亮政(浅井長政の祖父)生誕地説明板

お城の歴史

【岡本神社由緒】

当社は延喜式内神名帳所録、近江国浅井郡十四座の一にして元岡山に鎮座せり
往古より大門の地に祭供田と称する祭田あり。
是、京極持清の奉納する所にして免除地なり。
嘉吉2年(1442)三条大納言公綱卿丁野に配流の際、当社に祈請する所ありて、拝殿一棟献納せらる。 又舞楽堂は藤原公の寄進なり。
中古浅井氏代々の祈願所なり。
天正元年(1572)織田氏兵乱の際、朝倉義景勢(堀甚助・久保十郎・玉泉坊等)此所岡山に立籠る。
玆に戦利あらず、拝殿一棟を残し、社殿その他古文書等悉く焼失す。
同年12月神官、脇坂和泉尉霊夢を感じ、現在の地に再建遷座す。
豊臣氏よりも祭供田奉納あり。 徳川氏検地の際も免除地となれり。


丁野村絵図【縦73.2㎝×横130.0㎝】

平成22年(2010)の合併以前は東浅井郡湖北町に属していた。『近江輿地志略』によると古代の仕丁に村名の由来を求めている。二ノ坪、六ノ坪など古代の条里と関係がある字名が残る。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『江北記』『日本城郭大系』11、『滋賀県中世城郭分布調査』1、『滋賀県中世城郭分布調査』2「旧野洲・栗太郡の城」『滋賀県中世城郭分布調査』3。

 本日の訪問ありがとうございます!!感謝!!

 


弘聖寺 近江国(能登川)

2016年03月11日 | 居館

弘誓寺 

弘誓寺の始まりは、791年建部社の神宮寺・大願寺として開創されたことにあると伝えられている。

その後、源平合戦の武者・那須与一の七人の子供が近江に建立した弘誓寺七ヶ寺の一つとして、

1259年に二男が大願寺を再興して弘誓寺を建立している。
<近江の七弘誓寺>
  報身山弘誓寺:東近江市建部    浄土宗
  金剛山弘誓寺:東近江市瓜生津   浄土真宗本願寺派
  石畠山弘誓寺:東近江市五箇荘   真宗大谷派
  石畠山弘誓寺:東近江市躰光寺   浄土真宗本願寺派
  弘誓寺   :東近江市小田刈   浄土真宗本願寺派
  至心山弘誓寺:東近江市中一色   真宗大谷派
  弘誓山稱名寺:犬上郡豊郷町石畑  浄土真宗本願寺派

繖山を西に望む田園にどっしりと構える風景は、那須与一に関係する
趣を想像させてくれる。
庫裡裏の庭園も整備され、かっては浄土宗の大寺であった面影が残っている。

石畠山 弘誓寺(ぐせいじ)

滋賀県神崎郡能登川町躰光寺990

弘誓寺表門(弘誓寺・躰光寺)

この門は、大型の四脚門に入母屋造りの屋根をかぶせた門です。 門が建てられた時期は、部材の模様などから江戸時代後期と考えられます。
また、境内には諸堂が当時のまま残っていて、伽藍配置構成の上からも重要な遺構です。

能登川の文化財 http://www.town.notogawa.shiga.jp/maibun/bmap/index.html

第一番札所 報身山 弘誓寺 滋賀県東近江市建部下野町 282

072gusei源平の戦いも扇の的だその名を知る那須与一に七児が在りそれぞれ一寺を建て弘誓寺と稱したと云い今に傳わると云う 庫裏も古風に感じる土蔵造りで漆喰の白壁は眩しく書院客殿は塀で囲み美しい庭園を想像させる 他の寫真 弘誓寺 地圖

第二番札所 金剛山 弘誓寺 滋賀県東近江市瓜生津町 1314-1

131gusei2門前に二本の松の木が在り茅葺きの山門の柱を新しくする改修をし古きを守る姿は好い景色で在る 山門を過ぎれば親鸞聖人像が在り此処も松の木が在る 大本堂は軒柱を立てる真宗によく見る姿で向拝を廣く取って堂横には大庫裏を置く 弘誓寺 地圖

第三番札所 金龍山 弘誓寺 滋賀県東近江市五個荘金堂町 615

12zgusei3近江商人のふる里で金堂の町並みは白壁と蔵屋敷の並ぶ町並みは心温まる 商人屋敷も幾つか見る事が出来て成功の道しるべも見える感じがする 金堂町掘り割りが走り錦鯉が泳ぎ別世界で在る 真宗の特徴強い大本堂を持ち松の木の多く育てて大きく灯籠を置く 古い井戸の石組が残される 滋賀県 地圖

第四番札所 石畠山 弘誓寺 滋賀県東近江市躰光寺 979

 他の寫眞 滋賀県 地圖

第五番札所 浄土真宗 弘誓寺 滋賀県東近江市小田刈 413

12zgusei2参道には親鸞上人像が在り白土塀を巡らして山門が在る に密着した寺院に見え庫裏も本堂と列ぶが民家風で好印象で在る 横には豪商小林家の屋敷を開放して資料館とし商売の看板に始まり商いの帳簿類商用具等を展示し又家族の生活が見れる等具も展示する 庭園も豪華に在る 滋賀県 地圖

第六番札所 浄土真宗 弘誓寺 滋賀県東近江市中一色 380

 桁行約14m,梁間約15m,入母屋造で,正面に3間分の広い向拝を付す。三方吹き放しの縁を回した外陣の先に一段高く矢来を取り,その奥中央に後門形式の内陣,両脇に余間を配す。縁先に軒支柱を立てた形式で,近世末浄土真宗大型本堂の姿をよくとどめる。滋賀県 地圖

第七番札所 浄土真宗 本願寺派 弘誓山 稱名寺 529-1169 滋賀県犬上郡豊郷町石畑473

文治元年(1185)那須与一の次男宗信創立という。文永11年(1274)宗信中興、


 那須 与一   嘉応元年(1169)~不詳(不詳)   没年齢 不詳
.

那須氏の祖は藤原道長の曾孫・資家、下野国那須郡に下向して須藤(那須の藤原氏)貞信と名乗ったのが始まり。与一の父資隆が初めて那須を名乗って以後はその姓を継承した。妻は新田義重の娘と伝わる。
吾妻鏡には与一の記載がなく、平家物語あるいは源平盛衰記など軍記物にのみ記事が見られるため、実在は疑われている。元暦二年(1185)の屋島で扇を射る(審議には諸説あり、個人的にはフィクションと考える)などの軍功を挙げ、頼朝から丹波・若狭・武蔵・信濃・備中に荘園を得た。
.
与一は文字通りの十一番目に生まれた男子だったが、源平争乱期に兄達が平家に味方するなどしたため繰り上がって家督を継ぎ、逃亡中の兄弟を赦免し領地を分け与えて那須氏発展の基礎を築いた、と伝わる。晩年については諸説があり、これも明確ではない。子孫は那須七騎と称されて独立性が強く、那須氏・芦野氏・福原氏・千本氏・伊王野氏・大関氏・大田原氏に分かれ繁栄したが室町時代に分裂し没落した。

 


仮称)石馬山城 近江国(能登川)

2016年03月08日 | 山城

石垣城郭の先進地 南近江の城郭を学ぶ

近江石垣城郭の魅力

ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

 後藤但馬氏館 佐生日吉城(佐野山城・佐生城) 北向観音 仮称)伊庭山城 仮称)北須田山城 石馬山城 見学会参加しました

 

ここから、仮称)石馬山城域

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡野登川町)北須田 map:http://yahoo.jp/6IMaJE

現 状:明神山 山林・神社

区 分:山城

築城期:織豊期か?

築城者:栄螺坊か?

遺 構:石垣・土塁・曲廓・虎口・横堀・竪堀

標 高:336m 比高差:226m

目標地:石馬寺・・山頂の雨宮龍神社

駐車場:石馬寺参拝者駐車場

訪城日:2016.2.27

お城の概要

 仮称)石馬山城は、繖山の同じ山魂にあり、観音寺城と支城の佐生日吉城や和田山城への繋ぎ城か?(今は、繖山魂の伊庭山ハイキングコースになっているが、)

石馬山頂部(標高301m)を雨宮龍神社を主郭にプリン型で、北に副廓の縄張り普請で、帯廓、犬張り、主郭尾根筋や東廓も自然の地形を利用した畝状竪堀で堅固な城郭!

 城郭に興味のないハイカーには、単なる神社・縦走路の一部なのであろう。

お城の歴史 

信長公記 十三巻 天正八年 2、売僧不許  無辺の事

 このころ、無辺と名乗る廻国の客僧が石場寺(東近江市五個荘町石馬寺)に、栄螺坊の在所にしばし滞在していた

この無辺は常々より奇特不思議の力を持つと評判の者であり、それを聞いた下々の者達は心付けを捧げて噂の秘法を授かろうと、日夜宿所に集まっては門前に立ち暮らすありさまとなっていた。

 すると3月20日になり、その騒ぎを耳にした信長公から「その者の風体を見たい」との希望が出された。このため栄螺坊が無辺を連れて安土城へ参上することとなった。無辺来るとの知らせを受けた信長公は城の御厩に出、ここに通された無辺の姿をまじまじと見つめたが、なにやら思案の体であった。

 やがて信長公が口を開き、「客僧の生国は何処ぞ」と問うた。これに対し無辺は「無辺」とだけ答えた。さらに重ねて信長公が「唐人か、天竺人か」と尋ねても、ただ「修行者」と答えるのみであった。しかし業を煮やした信長公が「人間の身で生地が三国の外にあるとは不審である。さては化物の類であろう。ならば火炙りにしてくれるゆえ、火の用意をいたせ」と周囲に命じると、無辺はその一言に恐怖して「出羽の羽黒の者」と口を開いたのだった。

 それを聞いた信長公は、「ただの売僧ではないか。そもそも日頃より生まれた場所もなければ住む所もないと申し、仏法を広めるためといって人からの進物を一切受け取らず、宿の者に与える汝の態度は一見無欲のようではある。が、その宿へ幾度も立ち帰っているようでは到底無欲などとは言いがたい。とは申せ、そんな汝でも奇特の力を備えていると聞き及んでいる。ならばここでその力を見せてみよ」とせまった。

 しかし、無辺は一向に奇特の力を見せられなかった。その様子を見た信長公は「惣別不思議の力を持つ人というものは顔形から眼色まで衆に優れたものであるのに、客僧はその姿山賤にも劣る。その身で女子供を騙して国土の財を費えさせしこと、曲事の極みである。この上は無辺に恥をかかせるべし」と断じ、俗家並みに蓄えていた無辺の髪を所々はさみで切り落とさせた上で裸にして縄をかけ、その姿で町中を通らせて城下から追放したのだった。

・・・さらに信長公は、栄螺坊に対しても「なにゆえ城近くにあのような無頼者を留め置いた」と問いつめた。これに対し栄螺坊は「石馬寺御堂の雨漏りを直したきゆえ、勧進集めのために暫時置いておりました」と言上した。すると信長公は栄螺坊に銀子三十枚を与えたのだった。

・・・その後の3月25日、信長公は奥の嶋山(近江八幡市長命寺山)がけで狩り(鷹狩り)に出、そのまま28日まで鷹野(鷹狩り)を行った。そして狩りの間世話になったとして永田刑部少輔へ葦毛の馬を、池田孫次郎に青毛の馬をそれぞれ与えたのち、安土へ帰城した。


山麓 御都繖山 石馬寺

〒529-1401 滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823番地  TEL 0748-48-4823(代)

石馬寺(いしばじ)は今からおよそ1400年前の推古2年(594)。
  推古天皇の摂政であった聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い、駒の蹄に任せて永久に鎮護国家、仏法興隆を祈る道場を求めていました。
そして繖山(きぬがさやま)の麓辺りに来ると、駒は歩みを止めて進まなくなり、傍らの松の樹につないで山に登ったところ、瑞雲(※1)がたなびく風光明媚な風景が広がっていたのです。
 聖徳太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動して再び山を下ると、松の樹につないだ駒が傍の池に沈んで石と化していました。
この奇瑞に大いに霊気を感じ、直ちに山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け寺を建立し、馬が石となった寺、つまり『石馬寺(いしばじ)』と号されたのです。
その際に記された聖徳太子直筆『石馬寺』三文字の木額(※2)、及び太子が駒をつないだ松の樹は本堂に安置しております。
また、この時に聖徳太子が書かれた額の文字を石碑やパンフレット当のロゴに使わせていただいております。(当HPでは右下部に使われています。)
また、石と化した『石馬』も寺に至る石段下の蓮池に現存しております。霊験として語り継がれる、石馬寺が持つ霊力・霊気をあなたの心や肌で感じて下さい。

※1 「瑞雲」 めでたい兆しとして出現する、紫色や五色の珍しい雲
※2 「聖徳太子直筆『石馬寺』三文字の木額」 聖徳太子直筆と伝わる額の文字を、石碑やパンフレット等のロゴに使用しており、当HPの画面右下部でも表示しております。

 

東近江市五箇荘町石馬寺にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は御都繖山(ぎょとさんざん)。本尊は十一面千寿観世音。

≪石馬寺の歴史≫HP参照


石馬寺は聖徳太子の建立以後、法相宗、天台宗と転宗し、近江源氏である佐々木氏の篤く帰依するところになりました。

 しかし永禄11年(1568年)、織田信長の上洛に抵抗した佐々木承禎との戦いによる戦禍を受け、伽藍や院坊のことごとくが信長による兵火に遭い、昔日の壮観を二度と見ることが出来なくなりました。

さらに、豊臣秀吉が天下を取ると寺領及び山林を没収され、山主や僧徒は退散を命じられた。

慶長8年(1603年)、徳川家康により『石馬寺』が復興。

寛永11年(1634年)3代将軍家光公上洛にあたり、旧神埼郡能登川町(現東近江市)に造営された御茶屋御殿(伊庭御殿)を移築して大方丈としました(旧本堂)。

正保元年(1644年)11月、宮城県松島にある瑞巌寺の雲居国師を中興祖として招き、臨済宗妙心寺派の寺院として現在に至ります。石馬寺は、国の重要文化財に指定されている仏像11体をはじめとして、掛軸等、数多くの仏教美術を所蔵しています。
掛軸は非公開ですが、重要文化財に指定されている仏像等については、常時一般公開しております。

重要文化財(国指定)

阿弥陀如来座像    (平安時代)
十一面観世音菩薩立像(2体)(平安時代)
役行者大菩薩腰掛像   (鎌倉時代)

 

 

 クリックすると拡大します

参考資料:新発見山城見学会資料(レジュメ)、『ウィキペディア(Wikipedia)』、信長公記、石馬寺HP

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


仮称)北須田山城  近江国(能登川)

2016年03月08日 | 山城

石垣城郭の先進地 南近江の城郭を学ぶ

近江石垣城郭の魅力

ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

   後藤但馬氏館  佐生日吉城(佐野山城・佐生城) 北向観音  仮称)伊庭山城 北須田山城 仮称)石馬山城 見学会参加しました

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)須田町 map:http://yahoo.jp/QVv1kQ

現 状:山林・ハイキングコース

区 分:山城

築城期:織豊期か?

築城者:徳永石見守永昌か?山路将監正國か?

遺 構:石垣・土塁・曲廓・虎口・横堀・竪堀

標 高:336m 比高差:226m

目標地:北向観音堂

駐車場:北向観音堂参拝者駐車場

訪城日:2016.2.27

お城の概要

 仮称)北須田山城は、主家観音寺城と支城の佐生日吉城や和田山城への繋ぎ城か?(今は、繖山魂の伊庭山ハイキングコースになっているが、)

須田山頂部(標高336m)を主郭に、南廓・東廓で鶴翼の縄張り普請で、帯廓、犬張り、主郭尾根筋や東廓も自然の地形を利用した畝状竪堀で堅固な城郭!

 城郭に興味のないハイカーには、単なる縦走路の一部なのであろう。

明神山城?

お城の歴史 《資料より学ぶ》

天正11年当時・長浜城主柴田勝豊の主要な近江系家臣は
  • 徳永石見守寿昌)=東近江市・能登川伊庭伊庭庄領主。
  • (山路将監正国)=東近江市・能登川山路出身。
  • (小川土佐守祐忠)=東近江市・能登川小川出身。      いずれも東近江市能登川出身。
  
・長浜城主柴田勝豊=?−1583 織豊時代の武将。柴田勝家の姉の子、養子。越前(えちぜん)(福井県)丸岡城主。天正10年本能寺の変後の清洲(きよす)会議で、近江(おうみ)(滋賀県)長浜城主となる。
 
・徳永 寿昌=戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃高須藩初代藩主。生涯 はじめ柴田勝豊に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に協力した。
 
・山路将監正国=天文15年(1546年) - 天正11年4月21日(1583年6月11日)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。柴田勝家の家臣
 
・小川土佐守祐忠=近江出身ではじめ織田信長に仕え、1582 年、明智光秀の反乱に加わり山崎の合戦に出陣。                                         光秀敗滅後は柴田勝家に属して 勝家の養子勝豊の家老を務めた。

 クリックすると拡大します

参考資料:新発見山城見学会資料(レジュメ)、『ウィキペディア(Wikipedia)』 

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 

 


仮称)伊庭山城 近江国(能登川)

2016年03月08日 | 山城

 

石垣城郭の先進地 南近江の城郭を学ぶ

近江石垣城郭の魅力

ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

  後藤但馬舘 佐生日吉城 北向観音 伊庭山城 北須田山城 石馬山城 見学会参加しました

伊庭山ハイキングコースの古墳

仮 説

「伊庭氏320年の支配の、伊庭郷の居館だけでなく伊庭山に山城があってしかるべきではないか?」との仮説に基づき伊庭山一帯を踏査。

その結果、石垣後や土塁など発見した!仮称)伊庭山城とする。城郭研究家:長谷川博美氏と城歩会の会員が。

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)伊庭町 map:http://yahoo.jp/c4_9fP

現 状:山林・ハイキングコース

区 分:山城

築城期:織豊期か?

築城者:小川土佐守祐忠か?徳永石見守永昌か?山路将監正國か?

遺 構:石垣・土塁・曲廓・虎口・横堀・竪堀

標 高:310m 比高差:200m

目標地:北向観音堂

駐車場:北向観音堂参拝者駐車場

訪城日:2016.2.27

お城の概要

 仮称)伊庭山城は、主家観音寺城と支城の佐生日吉城や和田山城への繋ぎ城か?(今は、繖山魂の伊庭山ハイキングコースになっているが、)

伊庭山頂部(標高310m)を主郭に、低土塁で囲い、帯廓、犬張りにも注目される。北西へ段廓(平削地)が連なり、主郭尾根筋は自然の地形を利用した畝状竪堀で堅固な城郭!

 城郭に興味のないハイカーには、単なる縦走路の一部なのであろう。

お城の歴史 《資料より学ぶ》

天正11年当時・長浜城主柴田勝豊の主要な近江系家臣は
  • 徳永石見守寿昌)=東近江市・能登川伊庭伊庭庄領主。
  • (山路将監正国)=東近江市・能登川山路出身。
  • (小川土佐守祐忠)=東近江市・能登川小川出身。      いずれも東近江市能登川出身。
  
・長浜城主柴田勝豊=?−1583 織豊時代の武将。柴田勝家の姉の子、養子。越前(えちぜん)(福井県)丸岡城主。天正10年本能寺の変後の清洲(きよす)会議で、近江(おうみ)(滋賀県)長浜城主となる。
 
・徳永 寿昌=戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃高須藩初代藩主。生涯 はじめ柴田勝豊に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に協力した。
 
・山路将監正国=天文15年(1546年) - 天正11年4月21日(1583年6月11日)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。柴田勝家の家臣
 
・小川土佐守祐忠=近江出身ではじめ織田信長に仕え、1582 年、明智光秀の反乱に加わり山崎の合戦に出陣。                                         光秀敗滅後は柴田勝家に属して 勝家の養子勝豊の家老を務めた。


  クリックすると拡大します

参考資料:新発見山城見学会資料(レジュメ)、『ウィキペディア(Wikipedia)』 

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!