良い演奏をするために、どのように見られるか、は捨て去る。演奏態度を気にすると、自分の考える良い演奏ができない。コンサートから引退し、レコーディングに専念するようになったのは、グールドにとっては必然だったのかも知れない。
政治体制の壁を貫く普遍性ゆえに民衆は感動し、当事者は同業者意識を持つ。最近のレスリングのようなスポーツ、学問、芸術。為政者は逆に、ここから壁が融解することを恐れ、監視し、管理する。
研究労働の評価は、本来、成果の内の「新たな寄与分」「差分」であるが、実際には「成果」自体で測られてしまう。前者は当該分野における専門知識がないと理解できない。分野を超えた優劣を誰が評価出来るというのか。「事業仕分け」以前に、何に予算を付けるか、の段階で問われて然り、だが。
「科学(自然についての知識の学問、という前提で)は、人間社会の関与する全世界の中から「自然」を切り分けるところから始まる」。理科教育で明示されてはいないが、「理科」という科目を公教育上設定している以上、前提にしているのは自明か。
しかし、理科で教えるべき「自然もロゴス(=言語と合理)で語れることを子供に教える」と「言葉(ロゴス)では表せない自然の素晴らしさを感じ取れる子供を育てる」って、矛盾しちゃいないか?矛盾あればこその、止揚を求め続ける永久運動なのかも知れないが。
勉強好きな子供であれば、血筋や親の資産とは関係なく、志を立てられた時代には、活気があった。勉強好き、というだけでは食っていけない現代。
「思索する」の代行ではなく、「思索する」の補助。スポーツインストラクターのような、「爽快感」の体験を手助けする。ただ思索による「爽快感」の実体験がなければ、補助を求めることもないだろう。
民主主義国家の意思決定主体である国民にとって最低限必要な「素養」を身に着けさせるのが、義務教育の役割。意志があれば経済力に関わらず教育を受けさせるべき、或いは意志がなければ経済力に関わらず教育を受けさせないべき、と踏み込むか、或いはどこまで公が関与するべきか。
「税金を払って強制的にでもやらせないと誰もやらない」職業こそ、根拠盤石(笑)「ゴミ収集」というと「汚い仕事」のイメージがあったのだが、その給与を下げろ、という話も出ているが。
法律上権利が謳われていても、現実には行使できず侵害された状態であり、その不当性を主張する時間的・経済的余地がないのであれば、実質的にはそんな権利は存在しないのと同じであり、赤鰯を帯刀しているようなもの。