起床。今週は検定が終わって、若干気が抜けてしまっていたなあ~。いかんいかん。
「詩を書く人間」と「散文派」。興味深い区分。どのような点にこの差違が出てくるか。
演劇的な手法とは別の手法で新しい演劇の世界を作ろうとする試み。演劇に限られない芸術上の実験であるが、その実験によって演劇が演劇という世界を飛び出して普遍的な、演劇でなくてもいい世界に行ってしまう危険。演劇を相対化し、引力と遠心力との緊張関係が有意義かつ危険、か。
「演劇というジャンルの中だけの固有の遺産の受け取り方ではなく、一度いろいろな世界へ広がっていった文化が攪拌されて、また演劇へ戻ってくる」。落語でも、歌舞伎で取り上げられた演目は歌舞伎での演出を取り込んでいくことはあるわな。
テントを持って市民の中へ。演劇と政治の密接な関係。「オキュパイ運動」と政治的な演劇を絡めていく動きも、存在するのかも知れない。
「芝居は全て分かる必要はない。何もかも分かってしまうならば、わざわざ芝居なんか見に行かなくてもいい。その場では分からなくて、後で考えるのも芝居の面白さ」。芝居に限らず落語でも同じような部分はあるのだが、「後で考える」「反芻する」余裕がなく、「答えを求める」ご時世には厳しい話。
唐十郎のテントが出現した時には、日常的な新宿の一角に突然、異空間が現れた社会的インパクトがあった。今は日常空間が変貌して、虚構と現実の境も曖昧になっているので、初期のようなインパクトはなくなっている。逆に「昔の日常」的な小屋をもってくれば…という問題でもないな。
不況の時代、各家庭がなんとか生計を立てていくために、バブルに身を預けるのが一つの手段になった。そして住宅バブルが崩壊し、家から放り出された。今、週刊誌で喧伝される「アベノミクス」なり「安倍バブル」。日本のバブル時代も、「バブルに乗らない奴はバカ」と言われていた。そしてどうなった?
「too big to fail(大き過ぎて、潰せない)」。原理主義で、きちんと潰してみたら?という感覚がある。強者にはセーフティ・ネットがあって弱者には存在しない「自由主義経済」って何なんだよ。
子供に関わる仕事をしていて、なんというか絶対自分は損をしたくないというか、誰かがお菓子をもらったら同じように自分も貰うべきだとごねるような子が多くて、平等と言う概念が行き過ぎて自分が少しでも損をしていると感じると妬んだりする社会になっているなぁと実感する。なんでそんなに浅ましいの
他人より損していることには文句を言い、他人より得していることは既得権益と主張したり、有利なことに黙ったりしている。「競争力を高めるため、アメリカ並みに解雇規制を緩和せよ」と言いつつ、年休は取得させない前提、という「いいとこどり」。
「最初役者に渡される台本にはせりふが書いてあるが、現実の舞台ではほとんどそのせりふが削られてしまう。しかし、俳優は身体でその台本のすべてを表現しなければならない。」この作り方は興味深い。せりふが少ないのを良しとする落語でも、このような「身体化」を経ている気がする。
演劇における俳優の「身体」の主な課題。内面的には俳優は「どのように意識しながら身体の表現をしていくべきか」、外面的には「演劇空間の中で俳優の身体はどのようにあるべきか」。
江戸時代の劇場に「明日行灯」というのがあった。「明日初日」と書いてある行灯。「○日初日」でないから、ずっと出しておける。「近日ビラ」と同じことか。
裁判所のホームページで拝見しました。東京高裁はなぜ、こんな判断をなされたのか…。RT @bluebuggle: 高島先生が弁護人の最高裁決定を読んだが、確かに東京高裁の判決は酷い。
「離見の見」。舞台の上で演じている自分を、もう一人の自分が離れて見る。その距離感。それは重要なのだが、個人的にはまず没入できた上で離れろ、と感じる。離れたところで最初から客観的に見ると、「如何に見せるか」に意識が向き過ぎてしまうのではないか?
テキストを俳優が自分の体内で再生して言うにはどうすれば良いか。体全体で何かを表現する。その体の一部としてせりふが出ていく。せりふが空間に広がっていくように身体を「改造」する。
「顔の表情でごまかしてしまう役者がいっぱいいる」。落語も同様だな。表情を使うな、ではないが、表情も一つの表現手段であり、過剰に依存するべきものではない。
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駒場小劇場。放置されていた元東大駒場寮食堂北ホールを改装したもの、って、吉田寮食堂と似ているなあ。
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