「いけだ落語うぃーく」の一環としての珍品・寄席囃子の会。
「疝気の虫」(佐ん吉):△+
セミの話をマクラに振ってネタへ。
江戸の「疝気の虫」を聞いている身としては、莢雑物が多い印象。
疝気の虫が様々な「虫」にかかるシャレを言いウケているのだが、
個人的にはこれは不要であり、
この奇想天外さや小粋さを旨とするネタでは邪魔だと感じる。
あと、虫がやけに大きく、
これは人体に入らないのでは、と感じてしまった。
蕎麦と唐辛子ではなく、
堺名物の「大寺餅」と濃いお茶という設定。
これは上手く上方に取り込んでいて悪くない。
演る場所に応じてその場所その場所を名物を使っても良いかも知れない。
疝気の虫が喜んで踊りまわるところは
「地獄八景」風にハメや仕草も入り、これも良かった。
サゲは「別荘を探す」訳だが、
立って探す動きが少し多過ぎ、ここでウケを強く取ろうとしているように見えた。
ただあくまでも「小粋」なネタであり「落語」である、と考えれば、
帰る方向の反対側まで探したり、
後ろの襖に触れて「画いてあるだけか」などと言ったりするのは
やり過ぎと思う。
「茶漬幽霊」(まん我):△+
幽霊やお化けの話をマクラに。
「茶漬幽霊」って「幽霊」をメインにするネタではないのでは、
と「三年目」のイメージが強い者としては感じる。
既におかみさんが亡くなっており、
100ヶ日の法要が終わった場面での会話から始まる。
「死んだら後添えを貰う」「化けて出る」といった話は
亭主が説明する形で。
個人的には、これはこれで悪くないと思う。
確かに死んだ嫁さんの愛情みたいなものは直接の会話の方が出てくるが、
そこを直接描写せず、亭主の口を通す形の方が却って深みが増す面はあるだろう。
ただ、亭主の話そのものは整理が悪い。
もう少しウケ狙いでなく、嫁さんの気持ちや
それを紹介することを通して間接的に亭主の気持ちを表現できるような
テキストはあると思う。
後妻を貰うが初夜の晩は別に寝る。
後妻にも「幽霊が出る」と言っているんだな。
それは言わない方が良いだろう。
その方が「新しい嫁さんに済まない」気持ちに繋がりやすいと思う。
後妻が芝居を見るために出かけて、
昼の用意がしていないので茶漬を食べているところに先妻の幽霊が出る流れ。
後妻が「芝居を見るために出かける」
「食事の支度をしていないから茶漬でも食べていて欲しい」と言うところが
非常に回りくどい。
後の「気を使っている」「良い嫁さん」という男の述懐への仕込みなのかも知れないが、
極端な話、後妻の台詞なしに「行ってくるのか」「気にしなくて良い」くらいを
男が後妻と喋っている態で表現してしまえば良いのでは、と思う。
日頃からの気を使う女性らしい言動があるだろうから、
それを思い浮かべながら喋っていれば良いのでは、と感じる。
幽霊の出はまあまあ。
若干「へっつい幽霊」っぽい「後ろに出ている」などもあるが、
まあ、特に悪くはない。
「三年目」を見て、このネタは「女性の情」がメインと思っているのだが、
茶漬という「緩和」と幽霊という「緊張」の対比、という程度のネタに
矮小化していたように思う。
それならば(後から作られたネタだが)「茶漬えんま」でもやっていればいいのに。
「箒屋娘」(文我):○-
久し振りに見る文我。10年以上ぶり、くらいか。
マクラはこのホールや枝雀の思い出、
そこから談志の話など。
南光襲名時の控室で小さんがいる時に談志が入ってきたことや
その後のパーティーなどの話。
面白かった。
話し方や手の動きなどに米朝っぽさがあって妙に感じたが、
考えたら文我も50歳代だし、仕方ないのかも知れない。
珍しいネタで、全体にはまあまあ。
「若旦那が徐々に金の使い方を覚えていく」
通過儀礼の物語、として作られていたように思うが、
この方向は特に悪くないと思う。
話を進める番頭が良かった。
若旦那を尊敬し、その言っていることを聞き入れつつも
意見を言うバランス。
「若旦那の顔を見たことがない奉公人が多い」という小言は面白い。
若旦那は番頭に意見されて考えを改める際やその後は、まあ悪くない。
ただ、最初に番頭と話し始めた際の「堅さ」が不自然であり、
その後の「世間知らず」「引き籠もり」の雰囲気との一貫性に欠ける。
若旦那が定吉と出かける。
この定吉がお金を持っており若旦那の金遣いに対してツッコミを入れたり、
茶店で餅を頬張っていたり、
と狂言回しになる。
全体にやや不自然なところは感じられた。
箒屋の娘に会って「病身の父に」と金を渡すところ、
父親に叱られるから、と娘に言われたので
自分の名前や住所を書いたりするテキストなのだが、
この書いた物の使い方が非常に不自然。
長町裏に帰って父親に金を渡す際に、娘がこの書いた物のことを隠す。
結果、父親に殴られそうになって慌てて書いた物を見せる。
そこへ後をつけてきた若旦那が入る、という形なのだが、
そこまで心配するならば隠さずに最初から書いてもらったものを見せれば良いし、
父親が(「子はかすがい」のように)
殴るために娘を近付けていくシーンが演りたければ、
書いた物なんかない方が良いだろう。
登場人物の気持ちと行動があまりにも合っていないように見える。
若旦那が帰宅し、長町裏に住む娘と一緒になりたいと言い出す。
落語によくある形であり、これはこれで良いだろう。
大きな不自然さであり、個人的にはあまり気にならない。
長町裏の他の住人にも赤飯(おこわだったか)が配られ、
「誇り」と「箒屋」に掛けたサゲ。
まあ、悪くはないが、
婚礼からサゲだけ長町裏に戻して
今まで出ていなかった長屋の他の連中を出す、という作り方はあまり好みではない。
出来れば婚礼の場面で終わらせられれば、と思う。
長町裏の他の住人に配ることそのものは良い話であり自然なので、
入れたい気持ちも分かるのだが。
上方寄席囃子(出演者全員・かつら益美)
「箒屋娘」に引き続いて、
出演者や三味線方を出してお囃子紹介。
省略形の「一番」「二番」から、
「石段」「じんじろ」、
大看板の「鞨鼓」「野崎」「舟行き」「のきす」、「ひるまま」には
宗助が出のマネを入れ、
「東の旅発端」や活け殺しの「負けない節」といったハメまで。
文我の元曲も含めた紹介、宗助の真似やその中での米団治イジリなど。
真似で言えば特に米朝が歩き方から話し方、高座の仕草など非常によく似ていた。
他の演者は出方はイマイチ?と思う人もいたが、
喋り方や手の動きなどはよく似ている。
三味線は恐らく文我の嫁さんだが、うーん、いい加減長くやっているはずなのになあ、
という印象が拭えない。
この手の寄席囃子を表でやってくれると、
太鼓も音だけでなく、左右や手首の使い方などが分かるので有難いな。
最後は片砂切を実演しつつ幕。
非常に満足。
「釜猫」(宗助):○
「若旦那は遊ぶ、放蕩息子」といった話。
寄席囃子紹介の際に米団治をいじっていたのが仕込になっていた。
「磯村屋」の説明はなくても良いのでは、と思う。
ネタの出来は良かった。
このネタそのもの、は兎も角。
親旦那が米朝の物真似になっているところ、
それが故のクサさは気になったが、
それを除けば特に引っ掛かるところもなかった。
若旦那が磯七と話をした後の「隣の小便の方で親旦那が全部聞いていた」の
地の文がウケたら楽だな。
次の日釜を中庭に出す際、
店の連中が重そうな表情を見せた後で「こないに重かったかいな」と
さらっと言うくらいでおさめているのが良いバランス。
これ以上言うとクサくなるし。
猫を入れてお茶屋に運ぶ。
磯七にも遊び心がある訳で、そのあたりがよく出ている表情付け。
縛る仕草、釜を上げて解く仕草も丁寧であり、
ハメによく乗っていて良かった。
猫が撒き散らすところはあっさりと。
個人的にはもう少しクドくやる方が好みだが、
これは純粋に好みの問題。
サゲは猫が芸者の懐の財布を咥えて飛び出て、
それに対して「ネコババや」。
「ネコババ」を現在理解されている「物を取る」意味で使う方向のサゲであり、
「物を隠して知らん顔をする」意味ではないため、
説明の要否を考えなくて済むので良いだろう。
「昆布巻芝居」(文我):△-
古い芝居の話をマクラに振ってネタへ。
出来物のマクラを使わないのは悪くない。
ネタの出来は良いとは思えない。
個人的に好きなネタなので、その分、
テキストへの手の入れ方が不満であり、不愉快ですらある。
昆布巻を炊いている家での会話で始まり、
「鼻が利く」男の噂をしているところに「ごめん」と言って男が入っていく。
この男の「ごめん」の言い方などは悪くない。
ただ一度帰った後も(サゲにつながるのだが)「炊き過ぎて不味くなる」でなく、
「断られたから意地でも蓋をとる」に拘るべきでは、と思う。
また男が入ってきて芝居の話になっていくのだが、
「もう昆布巻は諦めた」とはっきり言ってしまい、
「店の連中を集めて芝居の話をして見せる」設定は間違っていると思う。
個人的にはこのネタは、芝居好きな主人と一緒に芝居をすることで、
主人とこのネタを見ている客に元々の話を忘れ去らせるほど集中させ、
その挙句に主人に蓋を取らせて
主人と客に元の「昆布巻」を思い出させる、
という話だと思っている。
「緊張の緩和」であり、「蔵丁稚」の「ええとこやねんけど」と同様。
しかしこの日の「昆布巻芝居」では、
登場人物が芝居好きなのではなく、
演者が芝居の真似を客に見せて「どうだ、凄いだろ」と思わせるのが好きなのでは、
と感じてしまった。
最後の「鍋蓋で刀を止める」以前に鍋を動かす場面などでウケが来てしまっていたのは、
客を芝居に集中させられていなかった一つの証であり、
出来が悪かった失敗の証だろう。
頻繁に主人のツッコミが入るのも目先のウケは取れるかも知れないが、
芝居への集中を削ぐ点でマイナスが大き過ぎる。
しかも繰り返す内にウケが減っていったし。
「芝居の真似の中で蓋を取れば良い」設定になっており、
「主人に何とかして蓋を取らせなければならない」設定になっていない、
或いは分かりづらいのが致命的。
後者の設定を明確にしておけば、
主人に対しても「蓋を取らそうとしている」ことを隠すような台詞回しになるし、
異人が鍋を持って場所を変える、何て部分は演じないようにもっていくだろう。
大体、主人が立ち回りに参加していないのでは?
男が蓋を取って良いのであれば、そもそも芝居の真似なんかする必要はないし、
このネタを演る必要もない。
下座はやはり声が出ていない。
そもそもこのネタは「蓋を取らせる」と考えれば立ち回りメインであるべきで、
それ以前の異人と武蔵の話や武蔵が入ってくるまでの場面は
「芝居っぽさ」を印象付けるものであり、
或いは主人や客に元の昆布巻の話を忘れさせるためのものだろう。
このあたりのバランスの悪さが
演者が自分を見せたい、という(私の感覚では)「邪念」の一つの現われだろう。
そんな訳で鍋蓋が(男か主人かによって)取られた時も
特に「緊張の緩和」という程の反応もなく。
まあ、芝居の真似がしたかった演者としては、別にどうでも良かったのかも知れない。
サゲも「昆布巻に味が沁み過ぎる」みたいなもの。
悪い「合わせ」ではないが、「昆布巻芝居」のサゲとしてはお話にならない。
この演り方では「おまえもむちゃし」と言えないだろうが、
そう言えることを目指さないような「昆布巻芝居」自体が論外。
終演21時45分。