第205話. 確かな事(1) 無神論者が多い世の中より霊的な人生観を持つ人達が多い世の中の方が“絶対“に良い!

2018-11-27 00:42:45 | ★確かな事
湖畔人です。

確かな事一回目ですが、今回言いたいのは、無神論者が多い世の中よりも、霊的な人生観を持つ人達が多い世の中の方が、絶対に良い世の中になる!と言う点を指摘させて頂きます。

“第4話. 一度きりの人生を大切に生きる為に【2】 -世界をどう見るか-”でも、
“第37話. 唯物論か 唯霊論(唯神論)か、考えを定めて生きる(1)”の中でも申しましたが、

神や霊的な存在を信じる人達が多い世の中と、無神論者が多い世の中の、どちらの世界が、より住みやすく、より信じられ、より身を置きたくなり、より我が子を育てたくなる世の中になるのか、その選択をしようとした場合に、多分、間違いなく、神や霊的な存在を信じる人達が多い世の中の方が、より住みやすく、より信じられる世界で、そして、より身を置きたくなり、より子を育てたくなるような世の中になると思うのです。

何故なら、
神や霊的な存在を信じる方々は、人に見られる事のない状況下にあっても、自らの行動や、自らの心の動きも、全て目に見えない霊的な存在、神や天使や先祖達に見られている、と言う考えを持っている為、その行いも、その心の在り方も、神仏に作られた者達に期待されている心の在り方に沿うものであろうとするでしょうし、愛、他への優しさ、正直さ、正しさ、等、道徳と呼ばれる事柄を神から身に付ける事を期待されている事柄として、真剣に捉え、真剣に守り身に付けんとするはずなのです。また、周りの人間達も同じく神の子達と見るはずで、自も他も神に作られた存在として大切に扱い、いじめ等あるはずもなく、頂いた命を自ら殺める自殺等もあるはずもなく、自らも、その家族も、地域社会も、職場の同僚も大切にし、仕事や行いに善念を込めて精一杯生きるはずなのです。そんな人達の集まりですから、世の中は良く成るしかなく、そこで育つ子供達も素直にすくすくと育つはずです。それは信じられる世界、素晴らしい世界だと思うのです。

一方、神仏も霊的な存在も信じ無いと言う、無神論者の方々と言えば、人は死んだら終わり、楽しまなきゃ損、苦痛を出来るだけ避け、うまく生き切りたい、と思う方が多いはずで、神を信じないので、日頃の行いが死後の行き先を決める、なんて言う発想は全くない為、行いや心持に他人を害する利己的な悪しきものがあったとしても、それを恥じる事も、反省する事も無く、悪事はバレない限り何をしても宜しいと考えており、道徳も法律の背景にも神の意図を反映した教えベースにしたものと重く捉える事は無く、あくまで便宜的なものと捉える為、人に見つからなければ、法に触れさえしなければ何を思おうが何をしようが構わないと思っている、道徳的に素晴らしいと思われている美徳と言われるような、愛も、優しさも、正直さも、勇気も責任感も正義感も、正しき心の探求も、本当は全く意味が無いと思っている、人は偶然の重なりで出来た物、単なる物質、アメーバから進化した物質であって、自分も物なので、自殺も平気で出来るし、他人も物と見るので、平気で他人をイジメたり傷つけたり、殺めたり出来てしまう(政府に反抗する若者達を戦車で轢き潰したり、列車事故は国の恥と隠ぺいする為に車両に人が残っているのにも拘わらず車両ごと地中に埋めようとしたり、イスラム教を信じるマイノリティーを強制収容所に入れ臓器売買の対象にしたりする隣国のように)、人権の尊さなど本当は信じておらず、脅そうが、陥れようが、苦しめようが、利用しようが、全く構わないと思っている、人を傷つけ殺めても良心も痛まないし、寧ろ人が傷つくのを見て喜んでもいる、そもそも良心など存在しない、と思っている、そんな方々が多数出現してしまう可能性が非常に高い、それが神を否定した世界に住む人たちが行き付く先なんだと思うのです。もうこうなると、ほとんど人の面を被った悪魔達の住む世界と同じであって、もう人間として末期と言える状況かと思われます。暴力と恐怖と嘘と陥れと快楽と権謀術策が渦巻く野獣の世界の出現です。まるで某国の共産党の権力闘争の世界、所謂生き地獄ですね。そんな世界に、住みたくなる事も、そんな世界に住む人達を信じる事も、そんな世界にあこがれと共に身を置く事も、自らの子を預けたくなる欲求も湧いてくるはずもありません。(しかし何と我々の住む世界に近い事か・・・・)まあ、極端な言い方をしていますし、多くの人は神を信じる人達と、無神論者の世界の中間に位置しているのだと思いますが、極論をすると、こうなるのです。

こういった無神論者の世界と、前述のような神仏と霊的存在を信じる人々の集う世界のどちらの方が、より良いかと言えば、当然迷いなく前述の神仏を信じる人々が主流の世界の方が、より住みやすく、より身を置きたくなる、そしてより信じられる世界、より我が子を預けたくなるような世の中だと言えるかと思うのです。

だから、宗教と言うと敬遠しがちな日本ではありますが、神仏、宗教を信じる人が多い世界をもっともっと歓迎すべきだし、神を信じる人達が多い世の中の方が、より安心できるし、より信用できる人達の集まりとなり素晴らしい、と考えるべきなのかと思うのです。

兎に角、ハッキリと言える事は、あらゆる悪事、イジメや暴力や詐欺や窃盗等、あらゆる悪事、あらゆる犯罪が起きる、その根底には、この神を信じない心が有る事は間違いのない事実である、と言えるかと思います。だって本気で神を信じていたら、そんな罰当たりな犯罪行為等、出来るはずもないからです。信じてないからこそ、怖いもの無しだからこそ、そんな悪事が容易に出来てしまうのです。

だから、世界を見渡すと、宗教を持つ国が圧倒的に主流です。日本以外の国ではほとんどの国が、中東でも欧米でも南米でも、アジアの殆どの国であっても、皆、神を信じ、宗教に入っている人達が主流なのです。何故なら、神を信ぜず神を畏れない人達は、前述の如く、簡単に悪を犯す事が出来てしまうため信用が出来ないからです。宗教に入っていると言う事は、神の元、信じられる世界の建設に積極的にコミットしようとしていると宣言しているに等しいのです。

ですから、日本だって、神仏や霊的な世界観を尊ぶ人達が多くなるような方向でもっともっと努力、改善して行くべきなのです。神を信じる事で、互いの内なる神性を尊び合い、本当の意味での人権の尊重が出来る世界、互いに親切にしあい、互いに尊敬し合い、互いに愛し合い、反省して心まで整える優しく丁寧な人達の集まりが出現して来るのです。そこにはイジメも騙し合いもあるはずも無く、信じられる世界が出現するのです。そんな良い世界に、自らの子供達を預けたいと思うのは私だけではないはずです。その為には、神を畏れ尊び信じる気持ちはその世界の前提として必要なのです。ですから、もっともっと日本は宗教大国になって行くべきなのです。

一方、人々を宗教から遠ざけている要因が宗教自身にある事も知ってはいます。宗教アレルギーの主要因は、問題のある宗教の存在にこそあり、そうした存在は、宗教間で自浄作用を働かせ淘汰して行くべきと考えます。神に誤解を与え、神を人から遠ざける存在は最も罪深い存在です。そうした悪しき種は摘んでいく必要があります。しっかり自浄する必要がありますね。

悪魔教的で、人や動物の生贄を要求したり、呪いを推奨したりするような宗教の存在は許されるべきではないですよね。また、極端な一神教で他宗を排斥し、他宗を悪魔認定し、暴力により滅亡させる事を肯定する教義を持つ宗教の存在も許されるべきではないし、また、正当防衛の目的以外での殺人や、薬物使用を推奨したりするような反社会的な行為を推奨する宗教の存在も許されるべきではありません。また、宗教の心の教えの部分ではなく表面的な古臭い生活慣習の強要や、意味のないカーストのような前時代的な身分制度や差別観の強要も許されるべきではないし、または現代の社会活動や現代の経済活動の妨げになるような、そんな古い慣習を強要する宗教の存在も矯正されるべきだし、また、洗脳され自分で物を考える事を放棄し、思考停止をした人達の多数の出現も、まるでロボットみたいで薄気味悪いので、基本的な物の考え方のみを教えたら、後は、その教えの応用を各人に任せて、各人に自分の人生に責任を持たせ、自分で考える習慣、精神的に自立した人間達の多数の輩出を目指す宗教の出現が推奨されたり、等、本来、許容できる健全な宗教とはこうあるべき、と言う方向でレギュレーションが設けられ、とんでもない宗教の存続が難しくなる状況が作られる、逆に、健全な宗教には更にお墨付きが与えられる、そんな宗教間の規定のようなものが設けられると良いと考えています。多分もうそうしたものは存在するのかもしれませんが、かなり教義にまで踏み込んだ、普遍的人類目線での本音の規制が要ると考えます。そうする事で、宗教を要因にした戦争を誘発する考えを根絶できるし、宗教へのイメージダウンを誘発する物の考え方も規制でき、また、とんでも宗教を根絶させる事ができると思うのです。
宗教を起因とした戦争も過去、世界史の中で数多く御座いましたし、宗教的な風習で現代的生活が送れないイスラムやヒンドゥーの世界も変革が要りますし、そうした事柄を見てウンザリしている方々が、無神論に流れている感じも否めなくはなくて、そこは宗教界の自浄が足りてないと考えます。それは理性的でオープンに語られるべきと考えます。ただ、我が教えこそが一番正しい、という気概は別に否定されるものではなく、逆にそう思えてないと救済など出来るはずもないと思えますし、そこは否定する必要は無いと思うのですが、ただ、であるから自分以外の他は全て悪、と言う考えは将来禍根を残すのでNGとなるかと思います。また、信者の獲得は、純粋に競争であり、宗教の教義の中身や活動内容でもって競われるべきであり、そこはフェアに行われるべきと考えます。ですから、嘘偽りで他宗のイメージダウン狙ったり、暴力に訴えかけたりするやり方はNGで、協定違反とし、宗教資格剥奪とすべきと考えますね。いずれにせよ、宗教間の自浄がもっともっと要ると考えます。

そして、オカシナ宗教がいない世界、宗教が本当に尊敬される本来あるべき世界の出現に期待をしたい所ですね。本音を言えば、個人的には、私が尊崇している宗教家の教えが、もっと広く受け入れられて頂きたいなと、思っていますけどね。

また、希望を言えば、ただ神を信じれば良いと言う訳でなく、人類を皆神の子として見る思想、人生は一度でなく輪廻があるという思想、カルマがあり、己が成した全ての事に責任が付いて回るという思想は、個人的には必須と思っており、伝統宗教で輪廻を持たない、ユダヤ、キリスト、イスラムであっても、せめて、輪廻なんて言う考え方も、もしかしたらあるかもしれない、位には、思っていただきたい所ですよね。でないと、以前も申しましたが、育った生活環境も境遇も人それぞれなのに、一度の人生の結果、永遠の地獄の業火に焼かれ続ける、なんて言う思想は余りに救いがなく絶望的で最悪だと思いますのでね。やる気が無くなります。そんな世界観ではね。だから、輪廻とカルマは必須の考え方と考えます。一説には、553年の第2コンスタンティノポリス公会議で輪廻が異端と否定されたと言う説があり、逆に言えばそれまでは肯定されて来た、とも言えなくはない状況ですね。または、ユダヤ教においてもギルガルと言う輪廻思想がある、何て言う説もあるそうですし、いや意外と砂漠の宗教にも輪廻があった可能性があるのです。何らからの政治的理由で輪廻思想はユダヤ教からもキリスト教からも消し去られたと言っていいのかもしれない、そんな感じで捉えて頂けるとありがたいのですがね。

さて、今回の確かな事をまとめますと、

① あらゆる悪事、あらゆる犯罪の背景には、神を信じない心が有る事は間違いのない事実。本気で神を信じていたら、そんな罰当たりな犯罪行為等、出来るはずもないから。神の不在は罪を生む。

② 一方、神を信じ、宗教に入っていると言う事は、神の元、信じられる世界の建設に積極的にコミットしようとしていると宣言をしているに等しい為、信頼でき素晴らしい。

③ だから、神仏を信じる人々が主流の世界の方が、信じない人達が主流の世界に較べ、より住みやすく、より身を置きたくなる、より信じられる世界となる、だから、より我が子を預けたくなるような世の中になるのだ。

④ だから、日本人はもっと、宗教を尊ぶ風潮を作るべきだ。

⑤ 一方、宗教界は自浄能力を発揮すべし。

と、こんな感じの結論になるかと思います。

今後も、こうした”確かな事”括りで色々とチャレンジしてみたいなと思っています。

それでは、また後日。

湖畔人

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。