第280話. 確かな事(2)永遠の命と輪廻とカルマは悪者にはツライ現実 & 確かな事(3)人生の答えはいつも一緒 & 確かな事(4)誰も進化の現場を目撃したことが無い

2019-06-23 23:15:28 | ★確かな事
湖畔人です。
 
何時も申し上げている通り、虐待や殺人等凶悪事件が後を絶たない思想的背景にも、または中国のなど共産主義国に自国民の虐殺数が数百万人、数千万人と言う驚愕の規模で行われてしまう思想的背景にも、また減らない自殺の背景にも、同じ思想的な背景があると思っていて、それは、唯物論、無神論にあると思っているのです。人をアメーバから進化した単なる物、物質、肉の塊であり、死ねば何もなくなる、と思うからこそ、平気で自殺で状況をリセットしようとするのでしょうし、共産党政権のように平気で政権に物申す人達を天安門で数千人、数万人規模で戦車で轢き殺しても平気なのでしょうし、子供の虐待等、理不尽で意味不明の殺人も後をたたないのでしょう。
 
しかし、この世界の真相はと言えば、彼ら悪事を成す人々にとっては大変残念な事に、また長い意味では彼らにとっても有難い事に、我々人類は一人残らず例外なく皆神の子なのであって、神の一部なのであり、神と言う巨木の葉の一枚一枚のような存在なのが我々なのであり、神と同質の性質、神性、仏性と呼ばれるものが各自の内にあるが故に、他を傷つける事も、自らを傷つける事も(自殺)、各自の奥にある神性、神そのものを傷つけてしまう事と同じ事であるが故に大変罪深く、大いなる償いが必要になってくると思われているのです。その償いの為に、転生輪廻の中、我々は永遠の命を生き、その中でその罪を償う状況を体験しその罪の帳消し、リセットが出来るようになっているのです。それら行為の記録は、業ともカルマとも呼ばれている消えないインクで書かれた魂の記録帳、魂の成績表なのです。
 
そう、我々は皆神の子なのであり、神の一部でもあり、祝福された存在なのであり、永遠の生命を生きる存在でもあり、転生輪廻の中、各自がより神近き存在に成るべく様々な経験を積んで努力研鑽している存在なのです。そして転生の中、他に対し様々な良き事もすれば悪しき事もする我々なのですが、相手もまた神の子であるが故に各自の内にはそれぞれ神性や仏性があって、その相手の仏性に対する善行や悪行が全て記憶されており、それら全ての行為への反作用を受ける事になっているのです。それがカルマの刈り取りと呼ばれるものです。
 
だから、沢山の人の命を奪ったような悪人と呼ばれるような方々は、それなりの罪の償いを未来世で受ける事を覚悟しなければならないのです。何人も人を殺めたなら、それだけの回数、殺される事を覚悟した方が良いのかも知れません。永遠の生命と輪廻とカルマと言うものは悪人によっては大変厄介な現実なのかもしれませんね。ですが、それも致し方ありません。悪事をなした人も、その本質は神の子であり神の一部であるが故に、成した罪は必ず償い、罪を成した相手の仏性に対し、謝罪と、罪への埋め合わせをし、綺麗になって本来の神の子としての本性を発揮しないといけないからです。
★永遠の命と輪廻とカルマは悪者にとってはツライ現実なのかもしれません。
 
また、自殺を思う人も死ねば楽になる何て思うべきではないのです。自殺した魂はあの世にも帰れず、地縛霊と呼ばれ、その場に縛られた存在となると聞きます。死んだと思ったのに意識があるので自分は死んでないと誤解をし、何度も死のうと試みる為、その過程で通りすがりの人に取り付いては、自殺を繰り返し、余計な罪を無意識のうちにどんどん積み重ねているのです。自分の置かれている状況を理解出来ないと言うのは本当に恐ろしい事なのです。だから自殺は御法度です。してはならない事なのです。だから、自殺を思う程辛い状況にある場合は、死ぬ位ならそのつらい状況から逃げた方がまだましなのです。何故なら、この世は神が作りし世界、そうであるが故に、その世界の否定は期待されている答えとは違うのです。この世への恨み心を持って死んだ人は、例えその人物の人生の殆どが立派な生き方だったとしても、死に際で、世を恨み、神を恨んで亡くなった場合には、どうも地獄に落ちているケースが多い印象なのです。何故ならそれは神の作りし世界の否定、神への否定に繋がって行くからだと思われているからです。
 
だから、天国に行くには、最低でも、死ぬ際に、“今世も色々と辛い事もあったが、それに耐えて強くなったし、学びも多かったし、魂の成長も実感出来た収穫の多い良い人生だった、神様、良い人生の機会をお与えいただきありがとうございました”と思って死ぬ必要があるように見えるのです。
だから、まぁ辛い事も耐えられれば良いのですが、良い人生だったと思える程度の辛さに留めておくべきであって、神や世を恨んでしまいそうな惨い状況に囲まれているなら、そんな状況からは逃げた方がマシなのです。世を恨み神を恨む位なら、逃げた方がマシです。勿論、心を変えて環境を変え課題を克服できたならば、それは100点満点なのですが、でもまぁ悪魔に取り付かれたような人を相手にして心を病む位なら、そしてそのせいで、世を恨み神を恨む位なら、そんな環境からはとっとと逃げ出した方がマシだと思います。ただ本人が気付くべき課題が残っている場合には、多分また似たような環境が出てくるはずですので、その場合は、どうもこうした環境は自分自身が作り出しているものであって、その課題を直視し、冷静に自分を見つめて何かを変えないといけないんだなと思うべきなのですが、それでも、余りにも理不尽な環境によって心を曇らす位ならば、そうした環境からはいち早く抜け出して、新たなる環境を求めたら良い、と考えます。
 
★人生の答えはいつも一緒のように見えます。何時だって"今世も良い人生であった"と思って死ぬのが人生の正解のように見えるのです。どんな時代でも多分それは一緒のように見えます。だから、死ぬ時に良い人生だったと思える人生、天国に行ける人生を目指して生きるべき、と考えます。
 
先述の通り、虐待や殺人等、凶悪事件が後を絶たない思想的背景にも、または中国のなど共産主義国で自国民の虐殺数を数百万人、数千万人と言う驚愕の規模で出来てしまうその思想的背景にも、減らない自殺の背景にも、唯物論、無神論、神への信仰の欠如がそこにはあると思えるのです。そして、その唯物論、無神論のベースには、ダーウィンの進化論があるのではないかと思うのですが、でも、そうした進化論を信じる方々に言わせると、我々人間も、元々アメーバのごとき単純な生命だったのが何億年と言う時の中で段々と変化を重ね進化して来た存在なのだと言うのですが、でも実は人類の歴史上誰もその進化の瞬間を目撃した人はいないのです。たったの一人もいないのです。誰も見た事も無いのにまるので見て来たかのように語っているだけの話なのです。それはただの想像、妄想のレベルの話であって、信仰の世界と同じなのです。科学者達は、何か偉そうに宗教を上から目線で見てバカにしていますが、実は進化論もただの仮説、妄想の類であり単に信じているだけの話なのです。その意味で彼らも立派な信仰者です。
多くの種の発生の経緯なんて、進化論支持者達が信じるような何億年もかけて段々と多くの種が生まれたのでは無くて、実は予め多くの種がほぼ同時期に大量に作られていた、なんて事も十分あり得るし、その内の一部が絶滅して、その内の一部がただ生き残っただけの話なのかもしれないのです。その真相は実は誰にも分かりません。以前も37話で言いましたが、新たな種は勾配では生まれて来ないのです。猫と犬のあいの子は出来きないのです。何故なら種が違うからです。種の壁と言うものは実はとても高くそうそう混じり合えないのです。一般的に新たな種の誕生は突然変異によって生まれると言いますが、新たな種として生き残っていくには、子孫を残すほどの大量な突然変異の新種の生命体が同時に多数発生しない限り新たな種として残って行く事は出来ないのです。突然変異でそんなことが起こるのか?と言う話なのです。あり得ない話をしているのです。だから嘗て太古の昔に遺伝子工学によって単純な生命をベースに何度も遺伝子改良が重ねられ、ほぼ同時期に多数の種が作られたと考えた方がより自然で、よりあり得る話だと思うのです。ではその遺伝子操作は一体誰がやったのか?と言う話なのですが、神と呼ばれるような偉大な御存在によるのか、それとも他の星から来た高度な生命体の仕業なのか、或いは嘗て人類が遺伝子工学において高度な知識を有していた時期があって、人類自身が数多くの動植物を多数作り出したのか、その三択が現実的な答えなのではないかと思っております。
まぁ勿論この宇宙全体を無から創造したクリエイター(創造主)が人や動植物も同じように無から創造したと考える事もありえますが、胎児の子宮内での成長過程を見る限り、いっぺんに出来たと言うより、単純な生命に改良が加えられて、次第に神に似た形態を持った人間が出来上がって来た印象を受けるのです。そこには試行錯誤があった印象を受けます。一時期は、肉体と霊体の中間、透明なジェルのような状態だった時代もあったと言う話も聞く位、色んな試しがあったのかも知れませんね。勿論真相は分かりようがありませんので、そこは高次なる神とアクセスが出来る預言者に聞くしかありませんがね。

★いずれにせよ、ハッキリしている事は、誰一人、新たな種が生まれる瞬間に立ち会った人などいないのです。一人もです。それは確かな事であると言えるのではないかと思います。

進化論は実験で再現できる話ではないのです。ただの妄想の類の話です。

余り不動の真理だなんて思うなよ、ってことです。

だから唯物論こそが洗脳なのであり、その洗脳の結果、命を軽んじる人間が増え、多数の殺人が行われ、その結果、多くの人々が人間不信に陥り、神の作りしこの世界を呪い恨むような事があるとしたならば、そうした状況を見て一体誰が喜ぶのか?と言う事です。そうした事態を見て悲しむのは神様であり、そうした状況を見て喜ぶのは悪魔と呼ばれる存在なのです。唯物論も無神論も唯物論的進化論も間違いなく悪魔が広めた誤った思想と思われています。それを科学的とか適当な事を言って有難がる現代の風潮には間違いなく誤りがあるのであって、この唯物論的進化論は、人が思うよりずっと毒性が強い思想なのであり、人の心を腐らせ、社会に混乱をもたらす危険な考え方と知るべきなのです。生物の環境への適応と変化程度はあり得ます。ただそれでもって新たな種は生まれて来ないのです。新たな種の発生は勝手には起きて来ません。新たな種は作らないと生まれて来ないのです。

遺伝子工学以外のアプローチで、新たな種を発生させる程の極端な自然環境を実験室で再現し、進化論を実験室で再現、証明してごらんなさい、と言う事です。そしたら進化論は科学的だと訂正しますから、でも、永遠にその時は来ないはずです。だって新たな種は環境の変化程度では生まれて来ないからです。悔しかったらやってみろと言う話です。唯物論的進化論は妄想です。そんな妄想に対しては、"もしかしたら我々の信じる唯物論的進化論は間違いなのかも知れない、やはり神の生命の創造と言うものは、聖書に書かれているものとは多少違うかもしれないが、でも確かにあった事なのかもしれない"位に思っておくのが、丁度良いと思うのです。唯物論的進化論なんてただの洗脳なんですからね。簡単に騙されてはいかんのです。

人間はただの物でもないし、死んだら終わりでもないのです。人間は神の子であり、転生しながら永遠の生命を生きる尊い存在なのです。だからこそ自らが成した過去から逃げる事は出来ないし、一方で初めから偉大で初めから救われた存在なのです。だって神の子なんだし神の一部でもあるのですから、そりゃ最強であり、最高に安泰な存在であり、最高に幸せな存在でもあるのです。アンブレーカブル、最強最高なんです。単に気付いて無いだけなのです。早く気付けと言う事です。その事実に基づいて日々生きて行く事が大事なのです。そしたら余裕だし、ゆとりも出来て人にも優しくなれるはずなんです。
どうぞお試しあれ。

それでは、また後日。
 
湖畔人

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