突然ですが、「デットマール・クラマー」を知っていますか?
このブログでよく紹介している、「映画の題名」でも「小説の題名」でもありませんよ。
私は学生時代にサッカーをやってました。もう遠い昔の話ですけどね。
その当時、日本のサッカーには当然、Jリーグなんてありません。
あるのは学生リーグと社会人リーグだけで、日韓定期戦でも日本代表は韓国代表に負けてばかりでした。
そんな訳でサッカーに対する一般の人達の関心もあまり高くはありませんでした。
Jリーグが発足して以来、今やサッカー人気はうなぎ上り、日本代表の試合に日本中が一喜一憂するようにまでなりました。
今日はそんな現在の日本サッカーの礎を作った人を紹介します。
「デットマール・クラマー(Dettmar Cramer)」
1925年ドイツ生まれの元サッカー選手・サッカー監督。
FIFAのコーチとしても活躍し、世界70ヶ国以上で指導にあたった。
1960年に、日本サッカー協会の依頼により、東京オリンピックを控えた日本代表の指導のために来日し、代表コーチに就任した。
当時の日本代表はリフティングも正確にできなかったので、基本練習を徹底的に教え込んだ。
この当時の教え子に釜本邦茂や杉山隆一らがいる。
クラマーの指導により日本代表は、東京オリンピックで、アルゼンチン五輪代表を退けベスト8の快挙を成し遂げる。
全てが終わり選手たちがオリンピックという重荷を下ろそうとしていたその時、クラマーは突然、どしゃぶりの雨の中、選手たちをグラウンドに集め、練習を始めさせた。
「タイムアップの笛は次ぎの試合の準備の合図だ」
1964年、クラマー自身は西ドイツに帰国したが、「クラマーの精神」を心に刻んだ選手たちは、次のメキシコオリンピックを目標に自らの技術に磨きをかけていったのである。
そして、1968年メキシコオリンピックで、日本は開催国のメキシコ代表を2-0で退け銅メダルを獲得しました。
それまでアジアの弱小国に過ぎなかった日本が、南米、ヨーロッパなどのサッカー超大国を破り、銅メダルを手にしたのである。
現在でも、アジアでワールドカップ、オリンピックを通じてのメダル獲得はこの銅メダルだけです。
この時の日本代表サッカーチームはまさしく伝説のチームと呼ぶにふさわしいチームでした。
そして、その伝説を作ったのが、「日本サッカーの父」と呼ばれる「デットマール・クラマー」です。
2005年5月、日本サッカー協会が制定した表彰制度「日本サッカー殿堂」の第1回受賞者になりました。
今、日本代表監督の「オシム語録」がたびたび話題になっていますが、40年以上も前に「クラマーが残した言葉」があります。
その一部を紹介しましょう。
・「試合終了のホイッスルは、次の試合開始のホイッスルである」(ゼップ・ヘルベルガー)
・「サッカー…、それは本当に素晴らしい競技だ。何故なら、子供を大人に、大人を紳士に育て上げる競技だから」
・「サッカーは人生の鏡である。そこには人生のあらゆるものが映る」
・ 「サッカーとは互いに"予測を破り合う"ゲームである」
・「コカコーラ・ボーイになるな」(試合中に一息つくなの意)
・「マウント富士まで蹴れ!」(クリアは大きく)
・「ゴール前ではギャングになれ!」
・「私はサッカーを好きではない、心から愛している」
こういった先達の努力があって、現在の日本サッカーがあるのですね。
頑張れ日本代表!!