勝良ー良忠ー以忠ー良道ー・・・?・・・?・・・ 兼経 ー兼遠ー・・・
中原有象の従兄弟に当る以忠(有象の父春宗の弟良忠の子)に出ており、五代の孫右馬少九兼経が、信濃大掾となって赴任し、佐久郡の牧長になったとある。佐久郡の物といえば、望月牧のことであろうか。あるいは浅間山麓の長倉牧かも知れない。
博士有象。助教以忠等。改二十市首姓」為中原宿禰」とあるのによれば、天禄二年(971年)九月に中原宿禰となり、また同系図に二年(971年)十二月十八日付「典薬寮允補任請奏」『朝野群載』八)・中原朝臣資清(永久二年 1114年 正月十三日付
中原資清は調べてみると、中原兼経と同じ信濃大掾である。
時代的にも山内首藤助清のことかもしれない。
また、この中原資清が義仲を育てた兼遠に続く系かもしれない。か、親戚か。
1111年に60歳で歿している 中原資清。1051年生まれ。源義家よりも12歳年下である。
あとの時代に同姓同名の中原資清が一名いたようであるが、上記は源義家と共に活躍していた人物ではないだろうか?
とすれば、源家の代々の乳母夫であった 山内氏=中原氏 それが資清なのではないだろうか?
義家ー義親―為義ー義賢ー義仲
この義親、為義までは、育てていたかもしれない。
そこにも、また、関わった中原氏がいたので、書き留めておこうと思う。
源義親の同心(家臣のことか?)にいた坂上重盛。その重盛の子清重は、中原定清に養子に入る。(中原貞清のことかもしれない)
清重(=清定)である。その清定の息子が清業である。
この清業は平頼盛の家臣であった。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/63638fa14d6d090e82f3bf0a77476023
上記の記事に間違えが発見された。→ 義親1108年に没 が正しい。
義親の家臣に坂上氏がいて、中原に養子が入ったことを見ても、この東国に関係する源氏に入り込んでいたことがわかる。