何故、比企郡が本拠の野本氏が金沢文庫近く(現在の神奈川県横浜市金沢区)に住まう事となったのか。
(はじめは「長浜」に住み、大津波にあって「富岡」に移ったようである。)
斉藤という名前にヒントがあると見た。
斉藤、例えば斎藤浄円は清原氏の系図にも載っている。
さらに野本氏は「野本斎藤基員」と斎藤が入っている。
つまり、どちらも斎藤氏と関りが強いのである。
野本氏も調べていくと、橘氏とも大江氏とも関係が深く、更に渡辺党、多田氏、等ともつながりが見られ、つまり源頼政、土岐氏とも繋がってくるのである。
頼朝にも可愛がってもらっているところを見ると、古くから頼朝の支えになった人がいたのではないだろうか?
そう、下河辺氏が野本の養子となる以前の苗字である。
寒河尼、深栖光重、などとも非常に近い。
源頼政の下司であったので、これは、頼朝も厚く遇すると思う。
その野本氏は、1300年代に大津波があって、流されてしまったのではないかという。が、その後にも名前が見える。
wikipediaよりその部分をコピーした。
このことを裏付ける事実として、『吾妻鏡』の原本や後の写本(北条本)が存在した金沢文庫(現在の神奈川県横浜市金沢区)から、北に3キロメートルほど離れた神奈川県横浜市金沢区富岡には野本氏所有の土地が今も多数残っており、古くからこの地域の大地主であった。
野本氏の菩提寺である持明院には、持明院開祖の墓地の近くに野本氏の先祖代々の墓石が多数存在し、中には非常に古い年号の墓石が残っており、この地域に古くから野本氏がいたことは間違いない。
また、富岡にある波除八幡と呼ばれる富岡八幡宮 (横浜市)(東京都江東区富岡にある富岡八幡宮(深川八幡)の元になった神社)などには、「応長元年(1311年)5月18日、突如大津波に襲われて長浜千軒は一夜にして海中へ呑込まれ、助かった者が長浜から富岡や氷取沢などに住み着いた。」という伝承が残っており、長浜は金沢文庫と富岡の中間に位置し、応長元年の大津波があった年代からも『吾妻鏡』編纂時期(1300年ごろ)に野本氏が金沢文庫の近くで生活していた可能性が高く、そうであれば五味文彦が推定した『吾妻鏡』の編纂者との関わりがあったことと矛盾しない。
さて、この野本蓮忍?と九里蓮忍は繋がってくるのだろうか?
私としては、非常に核心に近づいているようにも思うのだが。。。
清原清定の息となる斎藤浄円は、元は長定と言った。
藤原利仁の子孫である「野本氏」と斎藤つながりであるように思う。
なぜなら、清原教隆が金沢文庫を創設するように金沢実時に勧めたのである。
さらに、この金沢実時の姉妹に小山長村妻となった女性、大江広時の妻となった女性がいるのである。
この金沢文庫の周辺に住んで、文庫と建物をを守っていた人。文庫自体を管理し、活用していた人、そんな人たちがいたのではないだろうか?
それが清原・斎藤氏であったのではないかと思う。
清原氏は中原氏も近いので、そこにいたかもしれないし、大江氏もいたかもしれない。
三善氏も吾妻鑑を書くために調べものに来ていたかもしれない。
ともかく文官が中心であったと思うのだ。
金沢文庫を創設することを推奨した「清原教隆」は、コトバンクでは以下のようである。
1199-1265 鎌倉時代の儒者。
正治(しょうじ)元年生まれ。清原頼業(よりなり)の孫。家学の明経(みょうぎょう)道をつぐ。
鎌倉幕府につかえ,将軍九条頼嗣(よりつぐ),宗尊(むねたか)親王の侍講となる。金沢実時(さねとき)をみちびき,実時が金沢文庫を創設するうえで影響をあたえた。晩年京都にかえり,大外記(だいげき)となる。文永2年7月18日死去。67歳。初名は仲光。
蓮忍さま、もうそろそろ素性を明らかにしてくれませんか。。。