肥前国高来に関する記事を以前書いていた。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E9%AB%98%E6%9D%A5
この部分、一歩前進!
この平朝澄は有間氏であるが、蓮忍が譲り渡しを受ける形となっていた。
この蓮忍が「野本氏」ではないかと思う。
今でも野本館跡が残っている。
利仁山無量寿寺。東松山市下野本にある曹洞宗寺院
この野本氏の一族が、野本斎藤基員を名乗り、また、秩父氏の一族であったそうである。
さらに下河辺政義の息が「野本時員」である。母は河越重頼の娘。
下河辺の息が野本氏に養子に入って、能登守となっている!! と思う。
野本基員=時員(能登守)―行時(二郎)―時光(同二郎)―貞光(能登守)―朝行(四郎左衛門)
下河辺から野本家へ入ってきた養子となるという意味にとらえると、この「時員」という人物が、秩父・畠山・河越・下河辺・小山・結城・八田・宇都宮・深栖・堀・千葉・佐々木…等々、幅広い人脈があったことになる。
もう一度、千葉胤正娘が嫁いだ先を確認しなければ、と思う。
下記の様な説もある。
また、野本氏は1300年に忽然といなくなったのは、津波の姓であったのではないかという事も、更にその住んでいた場所が金沢文庫の神奈川県横浜市金沢区富岡だそうである。
金沢文庫を作るとどうか、という事は清原氏が提案したことと記憶している。
この辺りも調べる必要があると思った。
関東から流れてきた長谷川氏(下河辺氏)の残党が拠ったのは初瀬の里の長谷寺の侍僧としてではなかっのかという・・・こんな説もある。