私には九郎兵衛が兄なのか、はたまた少蔵が九郎兵衛の兄であったのかがわからない!!
少蔵が九郎兵衛の兄であったのか。
http://kinseikagatoyama.seesaa.net/archives/20141103-1.html
九里九兵衛 慶長五年に利長が大聖寺の山口宗永へ降伏するよう使者として派遣されるが断られ戻る。大聖寺城で戦い、金ケ丸で戦没。
九里正貞 甚左衛門と称し、越前で織田信長に仕える。府中で利家に仕え、七尾で二百石を知行した。元和元年に致仕し宥知と号し、寛永十年六月卒。
子の覚右衛門永正は慶長五年に利長より二百石を受け大聖寺で戦い、大坂の陣で負傷し、元和六年千石に到る。寛永七年に卒。
伊庭氏の家臣に見える「久郷氏」も関係があるかもしれない。
久郷吉信 文禄四年に利家へ百二十石の御鷹役で仕える。寛永八年卒。子の重右衛門義昌が御鷹役を相続して利次に従い富山へ移る。
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九郎兵衛は前田氏の家臣であったようである。
また、少蔵も前田氏から勘当を蒙っているようで、それを挽回しようと思ったのだろうか佐々氏の家臣杉江彦四郎と「わたり合い」とあるので、元は前田氏側であった、と見ることができるだろう。
前野氏の中でも、秀吉側と佐々側に分かれていたという事が「武功夜話」に載っていた。
長康の方は、秀吉側
忠勝・吉康は佐々側
という事は、この九里九兵衛(九郎兵衛)・少蔵は秀吉側(前田氏側)と成る。
年代は活動期が1585~1600年のことなので、源兵衛の息か、孫か、両方があり得る年代となる。
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前野氏から入った【九里十助】は吉康の息の一人であったので、私としては忠勝以来佐々氏に付いている系なので、やはり佐々氏側にいたのではないかと思っているが、九里に入ってしまったばかりに、前田氏にいたかもしれない可能性もある。
【前野吉康の室】が【佐々政次の娘】なのだが、其の佐々政次は1522年生まれである。
以下の記録は武功夜話には1558年あたりのこととあった。吉康26歳・武兵衛20歳とある。
1532年に吉康が生まれたとすると、1538年に武兵衛が生まれたことになる。
九里源兵衛が1510年生まれとすると、息の年代に吉康と武兵衛がいる。
という事は、前野氏から養子に入った【九里十助】は源兵衛の孫の世代と成る。
「十」とついているという事は、朝倉亭で足利義昭の元服の式のために門番をしていた十左衛門・十郎左衛門と関係してくるのかもしれない。
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九里十助の実の兄弟であった【佐々直勝】
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佐々備前守直勝の墓
佐々成政の甥。肥後の国人一揆の責任を問われた成政が切腹・佐々家改易後は加藤清正に仕え鉄砲組頭を務めています。