この系図の中に二人の頼季がいる。
もしかすると養子などでの同一人物かとも思えるが、どうなっているのだろう。
貞清ー頼成ー頼季ー康頼ー頼基ー清基
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-仲康(頼基の弟)
中原頼成=従四位下中原貞清の男。母、従五位下林重親の女。
貞清は1027・1031年などの文書に「主税頭中原貞清」のその名がみえる。
ところが、1149年にも「主税属中原貞清」として見えるのである。
同じ名前・同じ役職が二名いるらしい。これが混同されているようである。
康頼が1146年生まれで、1177年に鹿ヶ谷事件で配流されることを考えるに、
頼季は1120年と仮定。
頼成は1095年と仮定。
貞清は1075年生まれ位となるはずである。
中原広能の息頼季は
大江広元が1148年うまれであるため、広能が年がぐんと離れていた義兄として1128年年に生まれたとして、頼季は1150年生まれとなる。(広能は義理の弟かも知れないが、それでも同じ結果になる。)
さらに康頼は1170年以降の生まれとなり、鹿ヶ谷事件は無理であろうと思われる。
(いい加減な計算かも知れないが。)
つまり、私の考えでは1075年あたりに生まれた中原貞清が康頼につながってくる系となる。
貞清の系が平康頼につながり、
貞親の系が広忠ー親盛(忠順)…広元や親光、また厳島神宮の親実につながっていく系である。
話を因幡国に戻すと、この親実の息に親氏がいたのではないか…という事なのだが中原氏系図には見ることができず、はやり厳島神宮と関係のない藤原親実とその息親氏が因幡守だったのだと思う。
そこで以前広橋氏と関係のある親実が中原氏ではないかと思っていた節があったかもしれないが、どうも間違っていたようだ。
正しくは、広橋経光の妻は(父:大宰大弐 藤原親実)である。
で、中原範兼の使用していた紙が、広橋家の物であったわけだが、それも「中原親実」が関係していたわけではなく、範兼が広橋家や藤原親実家の家司であり、身近にその紙があったためと思う。
今気になっている二人↓
中原基政 中原基兼