新たに見つかった紀伊国の系図には「助」の通し字が多いので「助」のついた人々を調べている。
その中で見つかったのが「中原助光」である。
「吾妻鑑」にも出てくる人物で、中原姓の長野氏である。
皇学館大学文学部紀要, 第 37~38 号
この中原氏が長野氏を称したと考えるのが適当であろう。
藤原基通の政所下文によれば、中原助光は、代々この官符や政所下文、大府宣に基づいて任命されたという ... 長野荘は
既に永保年中二〇八一〜八四)、大宰権帥藤原資仲によって、長野郷内に所在の府領.
【荘園コード】 6501001
【国名】 豊前
【郡名】 企救
【荘園名】 長野庄
【フリガナ】 ナガノ
【重複コード】
【参考市町村】 北九州市小倉南区
【市町村コード】 40107
【明治村字名】 長野
【史料村郷名】 牟礼浦・多原野
【領家・本家】 宇佐八幡宮領・楞枷寺領(山城)・近衛家領
【初見年和暦】 長寛元年
【初見年西暦】 1163
【出典】 到津文書・宇佐大鏡
【遺文番号】
【記録類】
【関係文献】 無
【地名辞典】 角川地名=周防難に注ぐ竹馬川中流域、和名抄長野郷の後身、企救郡東半分、
小倉南区=もと府領仮名大安、永保年中権帥資仲が佃11町所当65石を一切経会に
【備考】 治承年中の地頭中原助光、南北朝期の長野助豊はその子孫か
=長寛元年に国司免判により庄司の起請田30町を含め不輸庄となる
=後に仁安2年に官宣旨によって正式立券
その中で見つかったのが「中原助光」である。
「吾妻鑑」にも出てくる人物で、中原姓の長野氏である。
皇学館大学文学部紀要, 第 37~38 号
この中原氏が長野氏を称したと考えるのが適当であろう。
藤原基通の政所下文によれば、中原助光は、代々この官符や政所下文、大府宣に基づいて任命されたという ... 長野荘は
既に永保年中二〇八一〜八四)、大宰権帥藤原資仲によって、長野郷内に所在の府領.
【荘園コード】 6501001
【国名】 豊前
【郡名】 企救
【荘園名】 長野庄
【フリガナ】 ナガノ
【重複コード】
【参考市町村】 北九州市小倉南区
【市町村コード】 40107
【明治村字名】 長野
【史料村郷名】 牟礼浦・多原野
【領家・本家】 宇佐八幡宮領・楞枷寺領(山城)・近衛家領
【初見年和暦】 長寛元年
【初見年西暦】 1163
【出典】 到津文書・宇佐大鏡
【遺文番号】
【記録類】
【関係文献】 無
【地名辞典】 角川地名=周防難に注ぐ竹馬川中流域、和名抄長野郷の後身、企救郡東半分、
小倉南区=もと府領仮名大安、永保年中権帥資仲が佃11町所当65石を一切経会に
【備考】 治承年中の地頭中原助光、南北朝期の長野助豊はその子孫か
=長寛元年に国司免判により庄司の起請田30町を含め不輸庄となる
=後に仁安2年に官宣旨によって正式立券
地震の影響で、節電が呼び掛けられていますが、如何でしょうか?
さて、太平記で日野俊基を見ていた所、処刑に際し、家臣が妻の手紙を届ける「俊基被誅事並助光事」と言うものが有りました。同名かとは思いますが、貴blogを読んだばかりなので或は?と思いまして、コメントします。
関東は、やっと30℃の真夏日をした回ったので、これからは動きやすいです。旭川の冬日のニュースが有りました。日本列島は長いですね。
すずむしも夏日をすぎて草の原
(涼むの懸詞です。)
その助光を調べたいですね。それこそ九里の兄弟の系小堀助光かもしれません。ちょうど1300年代です。
中原助光は治承五年の記録がありますので、別人です。
貴重な情報をありがとうございました!!
俊基の臣後藤助光は俊基の妻の書をたずさえて京都
から鎌倉に来たので、^後の対面をゆるされ、処刑後その屍を焼き骨を高野山に葬った。
後藤にも、中原姓の人がおります。
藤原秀郷の系にも・・・
そんな中でも、後藤助光という者がただ一人、
日野俊基逮捕の後も、奥方に付き従い、嵯峨の奥、小倉谷という所に隠れ住んでいた。
…とweb上にあり、反応している私です。
バッチリだと思います。
ナカっていう一族を追ってます。おまけにナカの一族は今タイミング的にも開花してきてますよ。
鏡関係や薬草関係のベースでもあると思います。
でナガなんですけどこれは各時代でやられちゃうんです。決して弱いわけではないので騙されるって感じだとは思います。ナガは、とっても貴重出し骨格と精神と両方の強さを持っているはず。そこと中原くっ付くと嬉しくです。ただ情に流されやすいのがたまにきず。慎重になってくれたらどんどん今までの環境や妬みからの攻撃にも強くなって世の中引っ張ってくれるでしょうね。
島と原も同じ神がそこにいそうに思いますけど、野もそれっぽいですね。7374
私は、近年平家物語を読み始めたばかりでとても太平記まではとしております。後醍醐天皇とか南朝とか難しすぎます。
拙句
霧深しすすきの色は闇の中
(霧とすすきは秋の季語?実はすすき野は今節電で夜は霧で真っ暗?早く復旧して欲しいと)
ナーガで、蛇、そして鏡にも通じそうですね。
九里は永田氏と舎兄・舎弟の関係でもあったので、その永とも関係しそうです。
なるほど、島・原・野。
古代とつながっていますね。
ヒントをありがとうございました。
この日野俊基の家職であった「後藤左衛門尉助光」の情報が他にも目に留まりましたら、よろしくお願いいたします。
後藤と九里はちょっと因縁がありますが、もしかして勝手に行動する同族を成敗する意味だったとか・・?
何かありそうに思えます。