九里 【九里】を探して三千里

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熊野別当行範(5)

2017-09-01 | 熊野氏
新しい熊野別当の系図を見つけたので、ご紹介したい。ページの一番下に載っている。
http://www.nextftp.com/well/roots/new_page_6.htm

この系図には、東京大学史料編纂所DBで見つけ、気になっていた長範の息たちである盛宗・盛勝・覚盛・盛意・盛範・範智が載っている。
とても嬉しい!が、ちょっと違っているのだ。比べてみて欲しい。



行範の弟が盛宗となっている上のページと長範の息の本名のどれかが「行範」であろうと思われるDB。

そして、「中世寺社と荘園制」の中の一文「行忠をのぞく・・・」の部分がとても気になる。
他の六人は頼朝と従兄弟関係とある。


行忠は後に壬生鳥居家となり、範誉は「長田氏」「金剛氏」「小和田氏」「河顔氏」となっていく。
行範の弟、範智から「富田氏」「吉田氏」「中岩氏」がでている。

まずこの行忠と範誉と範智を中心に探してみたいと思う。
この辺りが、熊野別当が近江国とダイレクトに関係ができるポイントなのではないだろうか?(為義のこと以外で)

そして、日本の苗字7000傑【熊野別当氏】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02012a.htm#002

ここに、重氏十六代孫ではあるが、宇多源氏佐々木氏族「平井氏」と「鳥居氏」と「菅沼氏」が同じ一族になっていくさまが系図にあるではないか!

きっとこの時だけではなく、以前から近い関係にあったのだと思う。「平井」「熊野」「佐々木」が系図に並んでいたことがあるのではないだろうか?

草津の熊野神社のweb情報では「明細帳によれば創祀年代不詳であるが、社伝によれば建保6年(1218年)佐々木信綱が紀伊熊野権現を勧請したとされ、のち応仁の兵乱により社殿焼亡し、神領も掠められ荒廃したが、天正年中、平井加賀守源基綱が社殿を再建したと伝えられる。」とある。

その平井氏は、行範の末裔なのかもしれない。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051a1.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051a2.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01002.htm

そして、奇妙な気もするのだ。範智がその名前で載っているのに、東京大学のDBの系図には行範の名前が載っていない。しかも重氏が本名だとすると…長範の息かもしれないが、「佐々木氏」に関係するか、藤原氏に関係するか…なのではないだろうか?平重盛からの「重」か? 藤白鈴木の「重」が、怪しいか。

本当の「熊野別当」ではなく、、という可能性もあるのではないだろうか?




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