〈論文〉「保科正之後見期の加賀藩について」本多俊彦 氏 著 より一部「岡田氏」に関する部分を下記にしるす。
岡田善政
岡田善政は美濃国の旗本として美濃国代官(美濃郡代)を務め、当時は幕府の勘定奉行であった。彼の父・善同は前田利家の許に寓居していた時期があり、その縁で善政の兄・義村は利家に仕えている。また、善政の息子2人(重治・重元)も前田家に仕えるなど、加賀藩と縁の深い旗本であった。
さらにweb情報として以下を
https://blog.goo.ne.jp/chitaya/e/0ed972ba8da2f141fe27f6fd5f9b7f11
岡田氏の先祖は、戦国時代に尾張に居住し、織田の諸侯に仕えていて、戦国時代から江戸初期は、岡田伊勢守善同(よしあつ)として、美濃ー揖斐城下に拠点を構え、美濃郡代・奉行として勤めていた。
善同の六男・善政の又六男・善紀は美濃・揖斐川沿いに清水陣屋を構えていた。
さらに善同が前田家にも仕えた事もあり、その長男義村は加賀・前田家に仕えていた。
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この揖斐清水陣屋は、近江国のすぐお隣である。
その奥に揖斐城がある。
そこを拠点としていた岡田氏。
となれば、やはり近江国時代の九里氏との接点だろうか。(京極氏のテリトリーと近い!)
善政の兄義村が前田家に仕え、九里もまた前田家に仕え、共に鉄砲に関係する「金沢 鉄砲所文書」に名前の記載がある。
他の文書、本、webには、
岡田長右衛門 岡田助右衛門 岡田十右衛門 岡田喜六郎などの名前が文書に見える。
岡田長右衛門(15??~1619)
前田家臣。1575年、前田利家の右筆、御算用奉行となり70石を領した。後に同じ前田家臣新川儀太夫と争い隻眼となった。のちに4,000石を領した。
岡田政忠(雄次郎)は、文久2年(1862)に壮猶館で航海学が創設されると航海学生頭取となり、後には軍艦発機丸の軍艦頭取として、元治元年(1864)の第一次長州征討では広島まで赴いた。明治元年(1868)には、徴士として政府に出仕し、刑法官権判事、江戸府権判事などを歴任した。帰藩後には参政、そして大参事に任じられて明治初年の藩政に深く関わった。
岡田助右衛門
岡田助右衛門直教(1527~1583)が初代星崎城主となる。
岡田十右衛門(重右衛門)とも書かれている。氷上郡志: 上巻に名が記されている。
同じ名前が岩磐資料叢書にも出てくる。同一人物なのか、別人かは分からない。
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縁ってふしぎですよね。その方がその後自分も苦労する事もなく仕事と適性が合うっていうかそんな人生は一番良いと思いますよね。
日本も稼業を捨てて大学に行って出世するって時代もありましたけど心も身体もボロボロにされちゃうなら最初からお父さんやお爺ちゃんの後ろ姿を見ていた方が幸せだったなんて思う事も多いんではないかなぁ?
で今は親も稼業継いでもいないから適性も分からずで遠回りだけど不思議な縁ってのはどこまでもついてくるのである意味安心。父は運輸関係でしたよ。陸でしたけど岡田さんは海で若干カスってますよね。空の興味ある人もいますね。勝海舟さんとか伊能忠敬さんあたりも関係してきますかね?
天体観測等も得意じゃないかな?
面白い偶然ってありますよね。