浄土宗に帰依
失脚した兼実は二度と政界に復帰することはなく、建仁元年(1201年)12月10日には長年連れ添った室(藤原季行の女)に先立たれ、建仁2年(1202年)正月27日、浄土宗の法然を戒師として出家、円証と号した。兼実は将来を嘱望されていた長男・良通が早世した心痛から専修念仏の教えに救いを求め、法然に深く帰依するようになった。法然の著作『選択本願念仏集』(『選択集』)は兼実の求めに応じて、法然が著したものである。
しかし、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』などによると、兼実は法然が唱える悪人正機の教えに少々信がおけなかった。そこで、自分達のような俗人や、戒を破った僧までもが本当に念仏を唱えることで極楽浄土に往生できるのか確かめようとした。
法然の弟子の僧と自らの娘を結婚させてその僧を破戒僧にしてみようと考えたのである。本当にそれでもその僧は浄土に往生できるのかを確認しようとしたのである。そのような破戒僧でも往生できるのならば自分のような俗人でも往生できるであろうと。その話を法然に持ちかけたところ、法然は、かつては兼実の弟である天台宗の慈円の弟子でもあった綽空(のちの親鸞)を指名し、あまり乗り気ではなかった綽空を説得して兼実の娘の玉日と結婚させ、兼実を安堵させた。
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しかし、親鸞は長生きだったので、九条兼実は破戒僧になってしまったかどうかを見届けることはできなかったと思うのです。
九条は1207年に没し、親鸞は1263年まで生きておりましたから。
webの情報によりますと、http://blog.aoplanning.com/general-ground-tamahihime/
玉日姫は越後へ流される親鸞の後を追い、侍女・白川局とともに結城に来た。
結城に留まり、親鸞の教えを広めることになった。
1254年(建長6年)、玉日姫は結城にて没する。
結城に「玉日姫の墓」があるのは、そのためであるとされる。
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西念寺 近くにも、玉日姫の廟がある
http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1217/1217c.pdf
上記の白川局は、公暁の事件の時に自害した白川義典の母親か縁者かもしれないとも思う。
法然さんにはお世話になっておりますけど、法然さんが結婚させたんですか?ちょい気になります。法然さんに会えないかかしら?で結城ってのがまた気になりますね。幸姫と玉日姫の系統が繋がるんだとうなあとも。
ここまでのして逃げておきます。