福田栄次郎による論文「江北荘園の在地動向をめぐって」の方に、面白い情報が載っていた。紫色は私が興味を持った部分である。
『富永荘の名耕地は、「圧之田地」と「召次之下地」の二つが存在しており、
それは、「富永庄柿田二里九坪畠弐段、為聖供之地、帳面明鏡也、然今度地下散合時、上使井沙汰人相共調評儀、
名主光明治定之処、雨森堀入道号召次、無上致違乱云々、無勿躰次第也、争難為段歩、掠聖供領、可加入免哉、造意太不可然者也」とあるように、
富永荘では「荘之田地」とは聖供領であり、「召次之下地」は聖供を免じられていたようである。
以下緑色は私の追記。
光明治定とあるのだが、光明皇后の事ではないだろうか?
また、雨森堀入道は、富永庄の中にいた人物で、召次と書かれている。雨森氏は藤原高藤の末裔とも言われている。
別の論文では景経が富永庄の荘官であった可能性を示唆していたが、雨森氏のように院の職員であった可能性が高いと思う。
追記の追記 網野善彦の北陸地方の荘園・近畿地方の荘園Ⅰに「ある時には郷の荘官となっている場合もあったと思う。」とあったので、荘官もあり・・・らしい。
このあたりはこれから勉強してみる必要あり。デス)
「召次」とは院に身分的に従属し、院中の雑事をつとめ、時を奏する役を掌り、また院が御幸のときに供奉する人々のことであるが、
院の御坪の中に伺候するので「御坪召次」とも称せられたと云う。
寛元四年(1246)三月四日後嵯峨院は承明門院に密々に御幸されたが、このときは「御壷召次等参仕、不及召次敦」とあり、御坪召次が供幸している。
「召次」には「御坪召次」ど「召次」とがあったようである。
また、「黄葉記」寛元四年九月八日の条には、
合、獺、重時朝臣追使轟昧近江国伊香郡召次案主職事政恒法師依為関東家人執中之、早可奏之貞返答了、十四日中事由遣院宣了とあり、
近江国伊香郡に「召次案主職」を有する者がいたことが知られる。
伊香郡のなかにこのような所職を持つ者がいたとすれぽ、「召次之下地」のことからおしても、それは富永荘であったろうと考えられる。
召次として院に従属するものは、具体的には「召次家主職」のような所職を与えられていたのである。
この「召次案主職」を得ていたものが「御坪召次」であったか、「召次」であったかは明らかでない。
「召次之下地」とは、こうした召次の保有していた土地のことである。
そして、召次は院に奉仕していたため、「召次之下地」には何らかの特権が附与されていた。
その特権の一つが富永荘においては、聖供の免除であったわけである。こうした関係は摂関家における大番舎人- 大番領の関係と同じような性格のものであったと考える。
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以上が論文の中の、私にとっての重要事項であった。
院司(院庁)のなかの職員であったようなのだ。
院での職員であったことを証明できるもう一つの文書が東京大学データベースにあった。
「寛元二年 正月二十三日
長官請願 勘解由長官藤原(経光)朝臣請申判官、中原景経」となっており、判官に推薦されている。
院の事は、全く知らないのでここで勉強したいと思う。
下の図はwebの「四等官表」から持ってきたものだが、その中の勘解由使を見る。
勘解由使(かげゆし)の長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)とあり、景経は長官に「君、判官を務めてみないかね。」と誘われたものと思われる。
その勘解由使はどのような仕事かというと、地方行政を監査するため設置とある。
勘解由使の職務は、前任国司が持ち帰った解由状の監査であった。これにより、国司交替時の紛争を抑制し、国司行政の品質改善を図ったのである。…だそうだ。
景経、無事に判官になれ、働いていたのであろうか。その後の文書は出てこないが・・
とにかく、院とつながりを持っていた 中原井口の景経である。