【田舎の2000年歴史ロマン】さんの「九里の起源について」を読んでいて、発見があった。
http://shokokuyugyou.com/inaka2000/inaka2000_4.html
【武運長久祈願の宮 脇子八幡宮のしおり】からの抜粋
①大宝二年[702]高向朝臣大足【たかむくのあそみおほたり】が越中・越後の国境を改めるために来て、神濟川(かんわたりかわ)(今の境川)をもって境界とした。
そこで国境鎮護の神を境川近くに祀る必要を痛感し、今の朝日町の城山に脇子八幡を祀った。
脇子八幡には誉田別尊、即ち応神天皇が祀られた。当時この峯を脇子の峯と称した。
御祭神は寛平元年[889]に正六位上より従五位に叙せられた。
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もう一度「近江国御家人 井口中原系図」を見直してみた。
中原長谷の母親に「摂津介 高向利男」とあり、長谷の一代前に弘宗王が讃岐権守 丹後守、大和守、越前守、とある。
このあたりから何か解き明かせないものか。