前回の記事の続きです。本より抜粋してご紹介しております。
石園坐多久虫玉神社が鎮座する石園(イソノ)と葛城の龍神伝承のある蛇穴(サラケ)とは近い距離にある。
龍神信仰のあった掖上・蛇穴に近い石園の地に於いて、祖先に渡来系人を多く持つ地域の人々が農作物の豊作を祈願するため、請雨の本尊である水神=龍神を祀る社として石園坐多久虫玉神社を崇拝するようになったとしても、時代背景、地域風土から考えて不思議ではないと思うのである。
上田正昭氏は、(「大和朝廷」講談社学術文庫)
「三輪山説話は、蛇体の神は水の象徴であった。稲作が広まるにつれて春に山から神が降って、田の神になるという信仰が育っていくが、三輪山の神が蛇神とあおがれるのも、田をうるおす水の神、すなわち田の神であったからであろう。」と述べている。
~~~*~~~
ここで、昨日の復習となるのですがweb情報にありましたように『龍・蛇 = 鏡 = 龍神・蛇神 = 太陽神』とあると仮定しますと、
龍・蛇=水の神=龍神・蛇神=田の神
龍・蛇=田に水が満ちると『鏡』のようになる=太陽も田に映り輝く=太陽神
まとめますと、
龍・蛇=水の神・龍神・蛇神=鏡=太陽神・・・と人の気持ちの中で変遷してきたのではないでしょうか?
~~~*~~~
著者の「まとめ」より 気になる部分を書いてみます。
(1)政権中枢部近くにいた渡来人、あるいは」渡来人を近い先祖に持つ人々は、日本人になりきり、日本国(大和政権・飛鳥朝、奈良朝、平安朝、などの各政権)の成立と発展に寄与した影響力は非常に大きく、且つ力も有していたのではないかと考えられるが、その割合には表に立てない思いを彼らの精一杯の自己顕示として、彼らの職務の一つであった史書編纂の中にめだたないように示したのではないだろうか。
(2)秦氏は大和国葛城の石園にいた期間が短くて、確かな遺跡などは見つかっていないが、石園→磯野→礒野、神楽(秦楽)という古地名、及び石園坐多久虫玉神社の名称、竜王宮という名称の古社が伝承されたことは、地域の古代史にとって価値ある遺産であり大切に護り伝えたいものである。
~~~*~~~
この磯野が、近江国も磯野氏につながっているのではないか…というのが私なりの発見です。
(石園にいた渡来系の人々は、他の勢力が入って来た時に、あちこちに散っていったのではないでしょうか。)
近江国湖北、長浜市高月町の西北部、賤ヶ岳山系の磯野山の東に、「磯野」という集落があり、戦国時代に湖北地方を治めていた浅井氏の重臣として活躍した、磯野氏の本拠地だった場所です。(磯野員昌、またの名を秀昌、が有名です。)
村の中心には延喜式内社「赤見神社」があり、その境内に磯野寺があります。
かつては赤見神社の神宮寺でした。
そして、祭神は神社の祭神は、第二十七代 安閑天皇で、皇后が春日山田皇女(山田赤見の皇女)です。
この皇后を調べてみますと、かすがのやまだのひめみこと云い、仁賢天皇の皇女のことでした。
母親は、和珥糠君娘ということで、『和珥』という文字が入っており、しかも皇后の名前に『春日』も入っており、近江国の和珥・春日氏に通じるように感じます。
このあたりは、これからの課題です。
~~~*~~~
この磯野氏のいた場所と、中原時代に九里の先祖がいた場所とは、同じエリアです。
九里の祖のひとつ前の代の中原経任の兄弟が「中原景経」であり、同じエリアの富永庄の召次勾当の役についておりました。
そして、丹波国柏原藩でも磯野氏と九里氏は一緒におりました。(あまりにも時代は離れておりますが、偶然とは思えないのです。)
同じ長浜市に「石作神社・玉作神社」もあり、気になる処です。佐味神社もあります。
~~~*~~~
今朝「九州の久里大牟田遺跡」を検索してくださった方がいらして、そういえば、大牟田の方はよく調べていなかったことに気が付きました。
久里大牟田遺跡の甕棺墓から出土した弥生中期の中細形の銅矛と銅戈
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/Kyushu1b.htm
銅矛と銅戈の違いの分かる写真です。↓
http://www.k2.dion.ne.jp/~osafune/heibayou/buki/buki.htm
矛も持っていたのですね! 鏡に矛!
~~~*~~~
蛇の古語
ヌカ ヌカヒメ (蛇巫、額田王)、ヌカト (天の糠戸)鏡作部の祖
鏡は蛇の目(カカメ)→鏡(カガミ)、額田王の父は鏡王。
もしも、鏡王が近江国の鏡神社のあたりに住んでいたことがあったとしますと、
額田王が蒲生野で野摘み(薬草)をした際に詠んでいたのは、自分の故郷での歌だった・・ともいえるのではないでしょうか。(脱線)
~~~*~~~
いろいろな情報が交錯しておりますが、鏡~蛇~石園~磯野、鏡と矛~水神と日・火の神、これらに九里は深くかかわっている氏族だったのではないか~~というのが、今日の私なりのまとめです。
和珥と春日が身近に出てきたことが、とてもうれしかったです。
そして、磯野氏の養子に安養寺がおります。このあたりも鏡氏に関係してくるのです。
石園坐多久虫玉神社が鎮座する石園(イソノ)と葛城の龍神伝承のある蛇穴(サラケ)とは近い距離にある。
龍神信仰のあった掖上・蛇穴に近い石園の地に於いて、祖先に渡来系人を多く持つ地域の人々が農作物の豊作を祈願するため、請雨の本尊である水神=龍神を祀る社として石園坐多久虫玉神社を崇拝するようになったとしても、時代背景、地域風土から考えて不思議ではないと思うのである。
上田正昭氏は、(「大和朝廷」講談社学術文庫)
「三輪山説話は、蛇体の神は水の象徴であった。稲作が広まるにつれて春に山から神が降って、田の神になるという信仰が育っていくが、三輪山の神が蛇神とあおがれるのも、田をうるおす水の神、すなわち田の神であったからであろう。」と述べている。
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ここで、昨日の復習となるのですがweb情報にありましたように『龍・蛇 = 鏡 = 龍神・蛇神 = 太陽神』とあると仮定しますと、
龍・蛇=水の神=龍神・蛇神=田の神
龍・蛇=田に水が満ちると『鏡』のようになる=太陽も田に映り輝く=太陽神
まとめますと、
龍・蛇=水の神・龍神・蛇神=鏡=太陽神・・・と人の気持ちの中で変遷してきたのではないでしょうか?
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著者の「まとめ」より 気になる部分を書いてみます。
(1)政権中枢部近くにいた渡来人、あるいは」渡来人を近い先祖に持つ人々は、日本人になりきり、日本国(大和政権・飛鳥朝、奈良朝、平安朝、などの各政権)の成立と発展に寄与した影響力は非常に大きく、且つ力も有していたのではないかと考えられるが、その割合には表に立てない思いを彼らの精一杯の自己顕示として、彼らの職務の一つであった史書編纂の中にめだたないように示したのではないだろうか。
(2)秦氏は大和国葛城の石園にいた期間が短くて、確かな遺跡などは見つかっていないが、石園→磯野→礒野、神楽(秦楽)という古地名、及び石園坐多久虫玉神社の名称、竜王宮という名称の古社が伝承されたことは、地域の古代史にとって価値ある遺産であり大切に護り伝えたいものである。
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この磯野が、近江国も磯野氏につながっているのではないか…というのが私なりの発見です。
(石園にいた渡来系の人々は、他の勢力が入って来た時に、あちこちに散っていったのではないでしょうか。)
近江国湖北、長浜市高月町の西北部、賤ヶ岳山系の磯野山の東に、「磯野」という集落があり、戦国時代に湖北地方を治めていた浅井氏の重臣として活躍した、磯野氏の本拠地だった場所です。(磯野員昌、またの名を秀昌、が有名です。)
村の中心には延喜式内社「赤見神社」があり、その境内に磯野寺があります。
かつては赤見神社の神宮寺でした。
そして、祭神は神社の祭神は、第二十七代 安閑天皇で、皇后が春日山田皇女(山田赤見の皇女)です。
この皇后を調べてみますと、かすがのやまだのひめみこと云い、仁賢天皇の皇女のことでした。
母親は、和珥糠君娘ということで、『和珥』という文字が入っており、しかも皇后の名前に『春日』も入っており、近江国の和珥・春日氏に通じるように感じます。
このあたりは、これからの課題です。
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この磯野氏のいた場所と、中原時代に九里の先祖がいた場所とは、同じエリアです。
九里の祖のひとつ前の代の中原経任の兄弟が「中原景経」であり、同じエリアの富永庄の召次勾当の役についておりました。
そして、丹波国柏原藩でも磯野氏と九里氏は一緒におりました。(あまりにも時代は離れておりますが、偶然とは思えないのです。)
同じ長浜市に「石作神社・玉作神社」もあり、気になる処です。佐味神社もあります。
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今朝「九州の久里大牟田遺跡」を検索してくださった方がいらして、そういえば、大牟田の方はよく調べていなかったことに気が付きました。
久里大牟田遺跡の甕棺墓から出土した弥生中期の中細形の銅矛と銅戈
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/Kyushu1b.htm
銅矛と銅戈の違いの分かる写真です。↓
http://www.k2.dion.ne.jp/~osafune/heibayou/buki/buki.htm
矛も持っていたのですね! 鏡に矛!
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蛇の古語
ヌカ ヌカヒメ (蛇巫、額田王)、ヌカト (天の糠戸)鏡作部の祖
鏡は蛇の目(カカメ)→鏡(カガミ)、額田王の父は鏡王。
もしも、鏡王が近江国の鏡神社のあたりに住んでいたことがあったとしますと、
額田王が蒲生野で野摘み(薬草)をした際に詠んでいたのは、自分の故郷での歌だった・・ともいえるのではないでしょうか。(脱線)
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いろいろな情報が交錯しておりますが、鏡~蛇~石園~磯野、鏡と矛~水神と日・火の神、これらに九里は深くかかわっている氏族だったのではないか~~というのが、今日の私なりのまとめです。
和珥と春日が身近に出てきたことが、とてもうれしかったです。
そして、磯野氏の養子に安養寺がおります。このあたりも鏡氏に関係してくるのです。