突然であるが、「能兼」を探している間に見つかった論文である。鹿島と奈良をつなぐ中臣氏など今まで知らぬことばかり。興味深く読めた。
https://core.ac.uk/download/pdf/96979151.pdf 国立公文書館所蔵『春日社行幸記』石附敏幸 著
春日行幸の開始と春日社神主職の成立
神主・正預・若宮神主を春日社の三惣官といい、彼らに従う社司・神人もそれぞれ三方に別れている。若宮神主は院政期に正預方から分立したものであるから、それ以前は神主と正預の二系統に分かれていたことになる。
両系統とも中臣系氏族により占められているので、両者は一見親密な系譜関係にあるかのように錯覚するが、実は全く異なる氏族である。すなわち、正預は中臣姓(正確には中臣殖栗氏)で、奈良時代の神護景雲二年(七六八)に鹿島の祭神を春日に鎮斎した神宮預時風・造宮預秀行の兄弟の子孫である。春日社を創始して以来、その地に居住して奉斎してきたのは、この正預の系統の中臣氏であった。一方、十世紀後半以降、中央貴族の大中臣姓(正確には大中臣氏「一門」)の神祇官僚が春日の地に下向し、やがて現地に居住するようになったのが、春日社の神主の系統なのである。正預方=中臣氏、神主方=大中臣氏という別は絶対であり、人事面で中臣氏と大中臣氏が混交することは決してなかったのである。
春日大社は、奈良朝の神護景雲二年(768)鹿島の武甕槌神を奈良の御蓋山に迎え、次いで香取の経津主命、枚岡の天児屋根命と比売神を併せて、同年十一月九日、麓の現在地に南面する四所の神殿を造営したのにはじまる。と、同社に伝わる『古社記(鎌倉初期に成立)』に記されている。
平安ごく初期には官祭となていた『春日祭』が、三勅祭(加茂・石清水・春日)のなかでも氏神祭の典型といわれることからも理解されるが、この氏神信仰は藤原氏が最も栄えた摂関制の十一、二世紀代その頂点に達する。行幸啓や春日詣とそれに伴う神宝の奉献、社領荘園の増大、社頭の整備、そして長承四年(1135)には若宮の創建と、例祭の『おん祭』がその翌年から始まり、信仰層は貴族からしだいに武士、庶民へと広がっていった。
春日大社の神主は中臣氏で、鹿島の神が御蓋山に迎えられたとき、お供をしてきた中臣時風・秀行の子孫という。兄弟は鹿島からの長い旅路の途中、名張の薦生山に御休みの際、神様からいただいた焼栗を植えて芽が出たという芽出たい故事によって、殖栗連という称号を賜った。
そして、奈良の御蓋山に無事鎮座された神様に、二人は自分たちの住む所を伺ったところ、この榊の枝の落ちた所に住むがよい、と投げられた榊の落ちた場所は、近世の「添上郡辰市郷」で、春日社からは約五キロの所であった。平安末期の社家の日記には「市預」とか、「三橋預」「椎木預」などの文字が見える。これは名字の生まれる以前の時代、春日の預職が管理していた各神領(荘園)の地名を冠して呼ばれていたもので『市預」とは辰市に住む預、という意味であった。したがってこの時代は、平素は神領の在地荘官を兼ね、お祭などの日には春日の神前へ参勤していたものと考えられる。
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別なweb情報より。http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/nakatomig.htm
栗原勝、中臣栗原連(録・右京未定雑姓。栗原-美濃から甲斐に分る)、栗原宿祢、宮勝、宮宿祢、均田勝、中臣美濃連(中臣美乃連)。なお、美濃国不破郡の岩手、竹中(半兵衛家)、栗原、四宮等は栗原連の族裔か。
栗原勝関係諸氏は居住地(美濃国不破・各務郡など)や勝姓などから、百済国人淳武止等の後という不破勝・不破宿祢(不破郡南宮神社祠官の不破は後裔か)と同族であった可能性がある。そうすると、雷大臣命の子の日本大臣命の後裔と称する栗原勝の系譜に疑問が出てくる。中臣美濃連を含めて、中臣連とは別系(例えば、和邇氏族ないし物部氏族)の流れか。
美濃国安八郡大井庄の大中臣氏はこの族裔か、その苗字に大井があり、江戸初期の大名で後に断絶した美濃出身の西尾も一族か。
下記とも関係があるように思う。
http://hidemichitanaka.net/?page_id=244「高天原は関東にあったーー鹿島神宮とタケミカズチの神の研究」
けど棲みわけがあるのもびっくりです。とても勉強になりますし、それぞれ意味合いがありそうですね。中臣って調べても全く分からない所です、大が付くとか鎌足の存在も含めて。
名張という場所もかなり気になりましたよ。
春日さんは謎過ぎてゆっくりと勉強していきます。息長さんも関係する所なのでややこしいことになっていることとは思いますよ。3365