九里 【九里】を探して三千里

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前野氏 と 原氏は 兄弟からの分かれであった。(1) 高成の息が分岐点 

2020-09-22 | 佐々氏 バラバラ情報

前野氏(後に佐々氏称となる系も含むと思われる)の系図が下記のページにあった。

http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no118.htm

武功夜話に関しての記事が139回にわたって展開されている!! 素晴らしい!! 
本も取り寄せているが、まだ来るまでに時間があるのでここで勉強しよう! 
http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_top.htm

===*===
その前野氏の系図によると、桓武天皇から始まり、良峯朝臣安世ーーー前から記事にしている「原高成」-「原高春」となっている。
其の高成の兄弟を見ていただきたい。

高春・高義・高長・高弘と四人の名前が挙がっており、その高長から前野氏につながっているのである。

今度はこのページの系図を見ると(前出の系図では前野氏一代から三代、その後省略されて十四代・十六代であった。)
十代から十七代が書かれている。 
http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no1.htm

さらに以下のページには、柏原家臣系譜 良峯姓佐々氏の系図にある人物が登場していた。「時綱」である。

http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no3.htm

「前野氏2代宗長の叔母が平忠盛の側室に上がり、薩摩守忠度を産み由縁を求めて京都へ。2代宗長、3代宗安は、平忠盛、忠度の家臣となって北面の武士(京都御所の北面警護の武士)となり滝口の姓を許されて、養和・寿永の(1181~2)年、源氏と戦い平家が滅亡。京都に残り、承久の乱(1221)、鎌倉幕府と都の戦いでは都方に付き、尾張川(木曽川)で戦い再度敗れてしまった。

4代時綱の時、六波羅守護に願い出て許され、前野村に帰った。
文永5(1268)年、前野村に時綱、氏神天満宮(現天満社)、菩提寺蓮華寺を建立し、その後尾張大介職中島宣長の家臣となり、尾張北部で軍馬を育成する馬寮下司(馬を扱う役人)を仰せつかり、尾張の地で武門の基礎ができていきました。

応永4(1397)年、尾張国守、斯波武衛氏の守護代(代り)として、越前より初代織田伊勢守常松が、尾張下津城主(現稲沢市)に守護代として入府することになり、八代前野高康は、上郡十家に召し出され織田氏に仕え、その後岩倉城織田伊勢守敏広の家臣を経て代々仕えました。

13代宗康に至り岩倉城伊勢守信安の軍奉行(戦の指揮者)を務めましたが、永禄2(1559)年織田信長岩倉城を攻め落とした。これを浮野合戦(現一宮市)※注1、といいます。宗康は岩倉落城とともに前野村に蟄居しましたが、3人の子供、長男前野孫九郎宗吉(雄吉)と、次男前野将右衛門長康両名を織田信長に3男前野小兵衛勝長を佐々成政に預けて、戦には負けても生き残りを考えました。」

此の勝長は、柏原織田家臣系譜の佐々氏には見えてこない。
しかし、宗能と九里氏に入った某と直勝の三人が佐々成政に仕えている。
此の直勝が怪しいと思う。

宗能の母は佐々成政の姉であり、直勝は仕成政冒佐々氏賜肥後国益城郡とある。

前野氏なのだが、佐々氏を名乗ることとなっている。

此の直勝の系が「佐々宗淳」と繋がっている。という事は、この宗淳の実兄が九里修政の系なのである。
因みに宗淳の兄の宗明という。

宗明ー直賢ー直期ー修政(繁治)=九里八郎右衛門 となる。


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1 コメント

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Unknown (木方)
2020-09-23 18:26:53
益城、気になりますね。地形としても特殊な
所だけに自然と関わる方々も関係者になりそうですよね。復興や安全にも関わる方が自然と現れてくるといいですよね。若い方に期待しちゃいます。
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