九里 【九里】を探して三千里

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九里氏の始りから明治までの流れ(7)天文五年(1536年)天文法華の乱 での 九里源兵衛 (鹿苑日録)

2020-03-21 | 九里バラバラ情報

水茎岡山城籠城、九里氏滅亡の後に、
希望の星ともいえる「九里源兵衛」が登場する。

『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述があること。

1536年天文法華の乱 等で『鹿苑日録』に登場する。

この源兵衛は後に「対馬守」となる。
そして、一番重要なのは、彼の実家が「坂田」にあるのではないかと思わせる「坂田へ下向」という文言がある事である。(大原氏と同行していることもある。大原氏の家臣?)
彼はとても気が利く青年?で「牛黄」「瓜・豆腐・鰻・松茸」と泊まらせてもらう相国寺に土産を持っていく。
出雲にも仕事で?赴いている。

どなた? どこの九里さん?

生き残り?

人質でとられた「玉松」? 
玉松は殺されてしまった…という話であったけれど、あれは誤報??

出雲にいた九里さん? それとも東国の??

九里源兵衛の情報、お待ちしております!

九里氏の中でも一番名前が出てくる。
天文法華の乱では調停が上手くいかず、その後に大変なことになる。
「法華宗と対立する延暦寺衆徒が京都の法華一揆を破り21の寺院を焼く。」

日蓮の支援者であった「富木常忍」を先祖に持ったために、この調停役につかされたのかもしれない。

この天文法華に関する論文によると、日蓮宗と信長が繋がってくるのも、この辺りのようである。本能寺も日蓮宗派である。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/68789/1/D_Kawauchi_Masayoshi.pdf

中世近世移行期における都市社会史の諸相 -16世紀京都を中心に( Dissertation_全文 )
河内, 将芳著






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