他の方のブログで「弁天様」を取り上げていらっしゃる方がいらして、私も思い出したことがあるので書き留めておこうと思う。
以前から、どのような経緯で鎌倉にも中原祐安(有安)をはじめとする楽人たちが関わってくるようになったのかが気になっていた。
特に今回は【中原光氏】に注目して調べてみた。
この人物は、鎌倉時代の音楽と舞を職としていた人物である。
(「音楽」と書いて「うたまい」とも云うようである。)
彼の養父となる中原景安は中原祐安(有安)の養子であり、鎌倉に京の音楽を広めた人物である。
諸説あるようであるが、
私の好きな雅楽研究所「研楽庵」様のブログでは、
http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-923.html
【父は中原景康で、子に光上がいます。狛近真の猶子となります。(系図)】
景康=景安ではある為問題はないのだが、其のあとの「狛近真の猶子」という箇所が気になるので、調べてみた。
『楽所系図』によると狛近真の養子となっていることが知られる。この中原一族と鶴岡八幡宮の楽所との関係も深い。(古代中世音楽史 荻美津夫 著)
左近将監中原光氏(景康子)は、一時、狛近真の養子となり左舞を伝えられた後に中原に復し(日本音楽史叢 福島和夫 著)
舞楽の家の狛近真(国語と国文学)であったため、その舞を伝えてもらうために養子に入ったという事のようである。
光氏は家業の笛・神楽歌の他 左舞…も加えられた、という事と思う。
狛近真(こま の ちかざね)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%9B%E8%BF%91%E7%9C%9F
コトバンクより ↓
鎌倉時代前期の雅楽奏者で,『教訓抄』の著者。奈良興福寺に所属し,かつ宮廷勤仕の地下楽家の出身。狛氏庶流の則房の養子となったが,祖父の光近を継いだ実兄の光真に嫡子がなかったため,光真の嫡子となった。光真が長く左方一の者であったので,仁治1(1240)年64歳の高齢で,ようやくその地位についた。『教訓抄』(1233)は,近真57歳にして,長男光継は鎌倉幕府の命により関東に住したが職を棄て,次男光葛は狂して道を執らず,最後に頼るべき3男真葛はわずか2歳,という家庭事情から,家芸断絶と舞楽道衰微を危ぶみ,楽道の教訓を子孫に遺さねばならぬという切迫した意図で成った。舞楽曲の故実,演奏記録,院政期以後鎌倉期の舞楽の実態を詳述した好書であるとともに,光近への畏敬の念,光真への対抗意識,実子たちへの憂慮感など,当時の芸能者の複雑な心境が読み取れる。舞の上手で,「春日権現験記絵」には,建保5(1217)年2月16日興福寺の衆徒が見守るなか,春日社頭で,笙・笛・太鼓を伴奏に,家芸の「陵王」を流麗に舞う様が描かれている。<参考文献>『舞楽府合鈔』,『楽所補任』(『群書類従』補任) (蒲生美津子)
1177-1242 鎌倉時代の雅楽家。
治承(じしょう)元年生まれ。奈良方。兄狛光真(みつざね)の養子となり本家をつぐ。狛光季(みつすえ)の舞を継承し,笛を狛則房(のりふさ)にまなぶ。伎楽や三鼓もおさめ,狛家の秘曲をうけつぐ。仁治(にんじ)元年左舞(さまい)の一者(いちのもの)。左近将監(しょうげん)。その著「教訓抄」は後世の雅楽の規範となった。仁治3年1月25日死去。66歳。大和(奈良県)出身。
鎌倉前期の雅楽家。左近将監(さこんのしょうげん)。光近の子という。父の没後狛則房に父祖伝承の左舞(さまい)を学び、名人と称された。演奏の故実にくわしく、三大楽書の一つ「教訓抄」を著わす。治承元~仁治三年(一一七七‐一二四二)
平安時代の雅楽家。奈良の興福寺に所属した楽家,狛家の出身。現在の楽部,辻家の遠祖。左方の舞を担当し,その経験を生かして天福1 (1233) 年,雅楽の専門書『教訓鈔』を著わす。
胡琴教録の奥付
以左近大夫将監中原光氏之秘本令書写之、秘書之間、荒涼之人有其憚、仍以女性令書之間、解字等多、得其意追可書改し
web上にある関係のある、またはありそうな情報を集めてみた。
京から何故鎌倉へ来たのか、なぜ新天地を求めてきたのか、そのあたりが興味深い!
https://ch.kanagawa-museum.jp/publications/reports
↓ オススメ三作 こちらを読むと中原光氏のことがよくわかり、満足できた。
https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr047_2020_watanabe.pdf
↓ が一番 中原光氏に詳しい
https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr046_2019_watanabe.pdf
こちら面白い 九條兼実の琵琶の師匠として景康(景安)が見える。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/59/0/59_59_25/_pdf/-char/ja
さらに、下記のお寺にも地図の中に名前があった。
神武寺 ↓
そして以前にも紹介したかもしれないが、光氏が鎌倉の鶴岡八幡宮に置いた「弁天様」
国宝である。本当は裸体で、そこに着物を着せている。