同じgooblogerである「自閑様」
https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/074fedbd80fb985ec788b3f382f29676
からヒントをいただいて、八坂神社の歴史を見てみると「紀百継」という人物が登場。
http://www.yasaka-jinja.or.jp/about/
元慶元年(877)疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされた。そのため各社に祈り奉幣が行われたが、一向に治まらなかった。さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、祈ったところ疫病の流行が止んだ。
これが祇園社の発展の契機となり、僅か2年後の元慶3年(879)には陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、また同地の材木商人360人は神人に補せられ、経済的基盤が早くも確立した。
又他のweb情報で「牛頭天王は京都祇園の 八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり…」ともある。
うしあたま…ではなく、「ごず」と読むのだそうで、今まで牛を撫でてきていたにもかかわらず、何と読むのが正解なのか知らなかった。笑
牛頭天王信仰さんのぺーじ より
https://minohkankou.net/minoh-kankou-mvg/minoh-story/gozu.htm
では、北野天満宮といえば菅原道真ですが、
こんなページも
http://kitanotenmangu.or.jp/info/blog/%E7%AC%AC%EF%BC%91%E8%A9%B1%E3%80%80%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E6%A7%98%E3%81%A8%E7%89%9B.html
北野天満宮境内の北西、乾(いぬい)の位置に当宮で最も古い撫で牛の像があります。この場所は、北野天満宮が平安京の乾に位置し乾天神と呼ばれ親しまれ、さらにその境内の乾という神聖な地、聖地であり、元々本殿の北西隅は江戸時代より一願成就所・乾さんと呼ばれて信仰されてきた場所です。朱塗りの鳥居が設置され、鈴なりの祈願絵馬が掛けられ、牛舎には多くの学生・受験生等が訪れ、祈りを捧げれれています。一願成就所、牛舎、乾さんとも呼ばれて親しまれた臥牛の石像が、頭は積年の傷みで少しかけて、台座の御影石に置かれています。牛舎は淳和2年(1802)の900年祭絵図にも載っおり、本社の信仰と共に、願事が必ず叶う。一願成就所として古くより特別な信仰をうけ、ご利益あらたかな社として、遠方よりの参詣者が絶えません。 牛舎の北側に、柵を巡らし注連縄で囲まれた所に大きな石、亀石があります。牛舎が南西の隅に移された間も乾の隅にそのまま鎮座し、牛の石像が陽石を象徴し、亀石は陰石ともいわれ、両方を御参りし御神徳をいただく、陰陽合い和す陰陽石として信仰されており、これは古代信仰の名残りとも云われています。
なんと、知らずに訪れるのと、知ってから訪れるのとでは違いますね。
次の機会には必ず亀さんと牛さんとのセットでお参りいたします!
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話を「紀百継」にもどすと、兼務ではあるが近江守であった時期もある事、がわかった。829年~のことである。
wikiwandの宝寿院(祇園社の社家)にも面白いことが書かれていた。
https://www.wikiwand.com/ja/%E5%AE%9D%E5%AF%BF%E9%99%A2_(%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%A4%BE%E5%AE%B6)
祇園社家は、祇園社感神院の長である執行(しぎょう)家をはじめ、別当・といった祇園社(現在の八坂神社)の重職を世襲した一族である。孝元天皇の曾孫である武内宿称を祖とする皇別紀氏を称し、遅くとも平安時代には祇園社の世襲執行家としての地位を確立した。
その後、執行家は複数の家系に分かれたが、室町時代初期に「宝寿院」の院号を称する家系に統一された。
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/147.htm
http://www.y-tohara.com/nara-kishi.html
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最後にmemo
http://www.y-tohara.com/nara-kishi.html
平群坐紀氏神社 (へぐりにますきのうじ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%88%B9%E5%AE%88
紀船守の孫に「紀名虎」がいる。
http://kamnavi.jp/as/ikoma/tubaki.htm
椿井春日神社
ここに出てくる「乾氏」は義経の裔では?