成務天皇の時代は60年にも及んでいたようで、こうなると近江の大嶋・奥津島神社もその間に創始されたことになり131年から191年迄の間に、とした方が良いのかもしれない。
更に驚いたのが、神功皇后摂政時代である。
本当に実在していた人物なのかどうかという説もある中で、69年間摂政をしていた‥‥とは思えないのだが。そして、この在位の間隔から、次の代の応神天皇が神功皇后の『息』という線もなさそうである。
仁徳天皇元年は313年ー398年までもの長い間在位についている。
400年より履中天皇元年である。
やっと下記の時代と重なってくるのである。(好太王碑)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91
広開土王については391年に18歳で即位したことが記され、その没後二年目の414年にその子長寿王がこの石碑を建てた。
広開土王の碑はかなり古いものだと思っていたのだが、石に刻まれたことで歴史が残っている。
神功皇后も伝承は多々あるので、私は実在したと思っているのだが、確固たる証拠がない。
久里双水古墳は、かなり神功皇后の伝承地である場所に近く、鏡神社にもその伝承はあったと思う。
久里が、その神功皇后の実在の証拠になるような、何かがあれば嬉しいのだけれど‥‥実は神功皇后を乗せた舟を模して舟形の木棺にしたとか???
まだ文字を刻むところまでは至っていなかったことが、もどかしい。
皇后の古墳にして小さく、副葬品も少なすぎ!
しかし、彼女の産んだ子どもの墓であったとか‥‥(妄想・・・)
そして、応神天皇は昆支王という説もあるようだが、昆支王は477年迄生きていた人なので、どうだろうか?
明朝体、読みにくくて字体変更しました!
神功皇后の忠臣武内宿禰は、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖で、日本書紀に記載の間違いがあれば、各豪族から異論が出て、収集が付かなくなりますね😁
ご返事遅くなってしまい、スミマセン。
なるほど!
一つアヤシイと思い始めると、何を頼りに(起点)にして良いのかがわからなくなって、、、、、
実際に残っている物から考える『考古学』も知らないといけなくなりますね。
九里を探している私には相手が大きくなりすぎです。(笑)
久里双水古墳が残っていたことで、百済・任那・加耶などとのつながりも知ることが出来て良かった===に留めて、元に戻らなくては!!と思っているこの頃です。