仁徳陵の被葬者は継体天皇だ 林順治 著 河出書房新社
古代の日本と加耶 田中俊明 著 山川出版社
などから、
神功皇后の年代が120年ずれていて201-270年を321-390年と考える、と良いようである。
例として、神功摂政五十五年(255年)に肖古王が崩じたとするが、…『三国史記』によれば、肖古王をさす近肖古王の死は375年で、120年の差ができている…と云う事で、120年の繰り下げで史実と合うのではないかという事のようである。
【日本書紀】は、卑弥呼と神功皇后をオーバーラップさせようとしたとのことである。
4期に渡って、繰り下げの年数が変わってくるのだそうだ。
(仁徳陵の被葬者は継体天皇だ 林順治 著 河出書房新社)
第一グループ 神武(初代)から孝安(六代)まで・・・・・370年
第二グループ 孝霊(七代)から垂仁(十一代)まで・・・・360年
景行(十二代) ・・・・ 60年
成務(十三代) ・・・・ 60年
仲哀(十四代)から応神(十五代)まで・・・120年
神功摂政期含む 第二G合計 600年
第三グループ 仁徳(十六代)から履中(十七代)まで・・・・ 95年
第四グループ 反正(十八代)から敏達(三十代)まで・・・・180年
用明(三十一代)から皇極(三十五代)まで・・ 60年
第一Gから第四G 合計 1305年
なのだそうだが、そうなると、起点は紀元前から?となるはずである。
架空の天皇と実在の天皇が混在しているのが日本書紀という。
wikipediaの「日本書紀」の中ほどに神功紀の紀年と外国史書との対照という表があり、参考となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
が、釈然としない。
日本書紀と古事記の年代を比べている論文を見つけた。
古事記と日本書紀の暦日
– 満月の証明 –谷崎俊之 著
この論文中の表1.での古事記と日本書紀との年代比較のほうが、私には分かりやすい。
久里双水古墳は、神功皇后よりも以前か、古墳の年代が321年以降か、になりそうだ。
いずれにせよ、はっきりした答えは今のところは出ないだろうな‥‥と思い、ココでこの話は中途なのだが終ろうと思う。
久里という名(もとは九里)が、鏡の製作に関わった場所(徐州)であったかもしれない‥‥という可能性が、少し開けたことが今回の収穫かも知れない。