九里備前守信隆(備前守)‥‥
この人物が次の段で六角高頼・定頼の罠に嵌められて没している(1507年)ので、前出の備前守も信隆のことと思われる。
《 三好氏との接点は細川政元を通して出来たものと思われる。》
近江国の山中氏・九里氏も三好と一味し…とあるように、六角のブラックリストに載っていた。
この三好氏がキーマンとなっているようなのだ。秋山教家の妻もまた三好氏であった。
九里が全滅と言われながらも、三好氏の許に逃げ込み、更に秋山城を持つ秋山氏へ紹介されて大和宇陀に潜んだような気がする。つまり、多賀秀種・福島正晴よりも先に宇陀に入っていた可能性もある。
また、宇陀の周辺に関する事として、この桜本坊豪為(上野氏)に仕えていた『九里但馬』がいたはずである。
桜本坊豪為は、1564年・1565年、足利義輝・足利義昭の近くにいた者であったようだ。
(永禄7)年6月21日西暦1564差出・作成桜本坊豪為(花押)宛先東弾正忠殿〈まいる〉御宿所形態竪紙法量(縦×横 cm)
九里氏が一名「橋本」にいたことも確認されている。
この九里但馬から九里又八・又九郎が出てきたかもしれない。
岡田氏とも何等かつながりはあると思う。
九里但馬が岡田重孝の息を預かったのかもしれない。
武田氏家臣であったこともある秋山氏もいる。
『岡田堅桃斎』が武田氏の御とぎ衆となって滞在していたことが文書に残っている。
その岡田氏と乾氏のつながりか、九里氏と乾氏とのつながりか、
大和宇陀柏原藩の九里氏と乾氏とが同じ家紋『榧ノ内十文字』であることから、武田氏にいた乾氏との関係も気にかかる箇所である。
キリシタンであったためこの家紋を使ったなど、何かしら理由があったのかもしれないが、キリシタンであったか否かもいまだ不明である。