牧野氏に追随していた九里氏について調べてみようと思い立った。
今までは、地理的に遠いこともありなかなか調べる機会がなかったのだが、今回加地氏のことが出てきたことで近くなってきた感じがする。
さて、牧野氏の配下にいた九里氏はいつから付き従っていたのだろうか。
三河牧野氏の時代には居なかったようである。とすると、、、、
牧野氏(wikipediaでは21の系の牧野氏に付いて記述あり。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E6%B0%8F
長岡藩に通じている牧野氏の他に、以前「原氏」で紹介した「成海荘」の神官となっていた牧野氏もいたようである。興味深い。(牧野氏11番)
web上にある様々な情報を拾い集めると、
https://www.city.toyokawa.lg.jp/saijibunka/bunka/tenrankai/kakonokikakuten/21nendo/makinoten.html
天正18年(1590)家康の関東移封に伴い、三河牛久保を離れて上州大胡2万石の譜代大名となりました。
その後、一族は大胡藩から越後長峰を経て越後長岡へ移りますが、歴代藩主は藩の発展に尽くしたほか、「常在戦場」を代表とする三河以来の質実剛健の藩風が代々受け継がれました。また、牧野一族は長岡藩救援の「米百俵」の送り主である越後三根山藩をはじめ、信濃小諸藩・常陸笠間藩・丹後田辺藩の大名として各藩を治めるとともに、江戸幕府の要職を務める藩主もいました。
https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/bunkasupotsukanko/bunkakokusai/gyomu/8/19479.html
初代大胡藩主・牧野康成は、徳川家康の東海道平定戦において武功を挙げ、その功績により大胡に所領を与えられます。天正18年(1590)、大胡2万石で入封し、大胡地区の町割りの基礎を築きました。
https://www.komoro-tour.jp/spot/castle/history/person05/
牧野康重「小諸城主(藩主)牧野家初代」
5代将軍綱吉生母桂昌院は叔母にあたり幼少より大奥への出入りが許されていました。
越後長岡を宗家とし、笠間、田辺(舞鶴)、三根山、小諸と合計石高214千石をもって幕府要職を務めました。
まず、牧野氏のことで手いっぱいの感じであるが、一歩ずつ進もうと思う。