中世東国の地域権力と社会 - 42 ページ
その重国は河崎 18 (中山)氏の一族で重家の子である。つまり重実・重国・重政・為重は兄弟であった。その重国の子高重は和田合戦に和田方へ組みして討死し、同国渋谷庄は没収され幕府の女房因幡局に与えられた。
北条政子: 幕府を背負った尼御台 - 115 ページ
長沼(小山)宗政の言によると、今回の論功行賞では榛谷重朝の遺跡は五条局に、中山重政の跡は下総局に与えられている。 ... たしかに五月七日の論功行賞では、相模渋谷荘が女房因幡局に、陸奥由利郷が大弐局に与えられている。
「渋谷庄(和田方に加わった澁谷氏の領所のみであろう)」も収公され、5月7日に「勲功」として「女房因幡局」へ与えられることとなった(『吾妻鏡』建暦三年五月七日条)。1213年のこと。
大江広元の妻? 源通具の妻?
源通具はまだ存命していた時代なので、大江広元妻(多田氏)かと思われる。
が、妻は数名いたかもしれないので、多田氏とも限らない。
または、佐々木高綱妻も考えられる。(まだ高綱存命中だが、出家あと)
私が見つけた因幡局は、石清水八幡宮宮司の幸清の妻であった【因幡局】であった。
http://zan35441.on.coocan.jp/sub26-2.html
後に近衛局になった人物という。法名:生蓮
因幡の母は、夜須庄司 助延の娘とある。
もしかすると號因幡とあるので、因幡局と因幡と、二人いたのかもしれない。
夜須といえば、源希義が関係していたようで、
『夜須行家行宗、希義を守る』と出てくる。
https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/e6a6442bb5ea97b0e1f03afd299221ee
http://www.komainu.org/kouchi/konansi/yasu/yasu.html
嘉禎元年 1235年
因幡局は、石清水八幡宮の成清の弟子幸清の娘で、宮清の母となった人物のようでもあるが、宮清の母と書かれた人物が二人いて、詳しいことはわからない。
それとも、宮清と同じ母から生まれているという意味かもしれないか?(つまり兄弟姉妹)
宮清の妻は、花山院法眼良宗の娘【大納言局】は後嵯峨天皇の子尚清を身ごもり宮清の室になった。
成清の弟子?幸清の娘が、宮清の母となっていることは確かなようである。
https://geocity1.com/okugesan_com/kinoshi.htm
因幡局の異母姉妹に多田蔵人の妻になった人がいる。ひょっとすると大江広元の妻の母かもしれない。
ともかく、この紀氏の因幡局だった可能性も少しあるのではないだろうか?
因幡という名がついているからには、父か夫は「因幡国」と関係のある人であったのではないだろうか?
そうなると、冨城蓮忍入道の可能性もあるかもしれないなどと、妄想してしまう。
または、長田氏かもしれない。
「長田兵衛尉實經は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂で後廣經と改める。父資經は平治に頼朝を伊豆へ送った。三巻壽永三年(1184)三月十日」
上記に出てくる 【唯信】の父は、八田知家ともいわれているそうである。親鸞の弟子である。
https://www.shin.gr.jp/shinran/24/t_042.html