どのように書いていけば、私の引っ掛かりが解明できるのか‥‥わからないのだが、ともかく書いてみようと思う。
https://www.mmdb.net/yamagata-net/usr/nishikawa2/antyuubou/page/A0001.html
寒河江大江氏は、大江広元が文治五年十一月寒河江庄を頼朝から拝領したことに始まる。大江広元はこの時、置賜地方全域即ち成島・屋代・北条の各庄と置賜郷の地頭職も得たものであった。広元は幕府の重鎮として鎌倉にあり、寒河江庄には、目代として多田仁綱を入部させた。
多田仁綱仁ついて「安中坊系図」には「仁綱は多田満仲朝臣の弟出羽満成の長男、左近将監満信の後胤なり、摂州多田郷吉川村仁誕生す。文治六年庚戌四月、中原広元の譲りを受けて羽州寒河江庄を領す。はじめ本楯村仁住し、のち吉川村に徒る。いわゆる吉川は、旧里摂州吉川村の地に擬して、この地を名づけて吉川と号す云々。嘉禄元年乙酉七月十日、薙髪 法名正阿源宥、文暦元年甲午六月十四日卒、或いは六月十日と言う、阿弥陀堂の傍らに葬る」と書かれている。・・・
親広以後の後継者は6代政広まで鎌倉にて過ごしたが、7代元顕は寒河江荘に下り、安中坊屋敷を本拠地とした。
政広まで鎌倉にて過ごしていた!
ただし、親弘は承久の変で逐電していたので鎌倉にはいなかったのではないかと思う。
紀伊にも大江親広がいたという説も、ご地元の方でブログに書かれた方がいらした。寒河江の前に潜んでいたことがあったのかもしれない。
下記は以前にもご紹介したかもしれない。
佐々木哲氏のメルマガからで、非常に面白い箇所で、今まさに関係してくると思う。
目賀田氏の祖と考えられる右馬助平信忠は、『梁塵秘抄口伝集』巻十で後白河院の今様の弟子の筆頭に挙げられ、「この中には信忠こそは年来弟子にてもあり、千日のうた(法住寺御所での千日の今様会)にまじりたる者はあれ」と述べられている。信忠は今様を通して後白河法皇と強く結ばれていたことが分かる。
また信忠は、後白河院近臣大膳大夫平信業の年齢差のある兄であり、『山槐記』保元三年八月十日条の除目の記事では「任右衛門尉平信成(元左、然信忠、成父子礼、同為大[ママ])」とある。この記事から、信忠と信業(信成)は兄弟だが、父子の礼をとっていたことが分かるが、このうち「同じく大と為す」をどう読むのか解釈が難しいが、大は右の誤りで、「元は左衛門、然るに信忠と父子の礼を成し、同じく右衛門と為す」と読めよう。目賀田系図で信忠―信生(のぶなり)とするのも、信忠―信業(信成)の関係を反映したものと考えられる。信業も信忠の養子になることで、後白河院近臣としての地盤を築いたのだろう。
信忠は右衛門尉のまま、保元元年(一一五六)十一月二十八日には検非違使に補任され(山槐記除目部類)、翌二年に従五位下に叙爵され、検非違使に叙留された。同三年(一一五八)正月三十日に従五位上に加級されて山城守を兼任し、三月一日には正五位下に叙された(兵範記)。八月十日に弟信業が左衛門尉から右衛門尉に転じて信忠と同様に右衛門尉になり、八月二十五日の行幸では信忠の子信遠・信元が左衛門尉として供奉している(山槐記)。その後信忠は十月六日に備中守に遷任された(兵範記)。
ところで信忠は検非違使補任のとき平氏から大江氏に改姓している。そうであれば信忠が大江氏改姓後に『愚昧記』仁安二年九月二十一日条で「信忠妹」と記された坊門局も平氏ではなく大江氏の可能性がある。壬生家文書八一号採銅所領次第によれば、信忠は摂津能勢郡採銅所預の大江氏の出身であり、馬大夫大江成賢の孫で、大膳進大夫範資の子だという(小泉恵子「中世前記に於ける下級官人の動向について」『中世の人と政治』吉川弘文館、一九八八年所収)。壬生家文書によれば、大江氏の系譜は神奉賢―大江成賢―大江範資―大江(平)信忠と続き、本姓は神(みわ)氏である。三輪(神)氏は出雲系神職の氏だが、また鉄など鉱物資源を採掘する氏族でもあり、その一族が銅の採掘を管理していたことがわかる。
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この記事は次に続く。
あと今日は6/10複数ある命日の一つが今日なのならばご冥福をお祈りしてみようと思います。その為にも知識を付けないとと思いますね。
鎌倉時代に来ると、なかなか抜け出せません。
今回源義朝の妻に大江広元の娘もいたという説、そこが中原久経の母のことだったのではないかと‥‥
朝長の母は、波多野ですが…詳しいことは後日 記事に書きますね!
山口県の(長州藩毛利家「元姓大江」)関係文書では
確かに寒河江の領地を相続させたのは毛利家38代
大江廣元の長男、親広とし彼を、彼を寒河江毛利家祖と記します。
彼の母親は源飛騨守仁綱女としますので、こちらは摂津源氏の後の多田氏でしょう。
ただ彼は久我内大臣通親の猶子とも記され、
源仁綱が外祖であるため姓を建久3年8月5日、源と改姓しますが、建保4年6月大江姓に復帰しました。
彼の墓所は
羽前國西村山郡吉川村阿弥陀堂畔
とされます。法名 漣阿
現地情報で吉川とあるのが気になります。
毛利三川の吉川(きっかわ)と関連しますかね?
毛利家支藩岩国藩主吉川を追跡しますかね。
話は変りますが、中原や大江はよく分かりませんが
毛利系図上はニヤミスします。
基本的には一門だと思われます。
また大江や毛利は多くの分家や閨閥を作っていますのでそれぞれの点を線で結ぶ必要があるでしょうね。
ただ、長州藩主毛利家文書と雖も、一次史料でない限りは史実とは限りません。
明治政府の正統性を確立するための修史局(現在資料保管は東京大学史料編纂所)の資料もある意図をもった玉石混交のもとして捉える必要がありますね。
屋代拝